甲子園の風BACK NUMBER
「女が野球なんて」意識はどう変わったか 「女子も甲子園」継続のカギは女子高野連が抱える“アマチュアリズムを逸した行為”
posted2021/06/09 17:02
text by
飯沼素子Motoko Iinuma
photograph by
Motoko Iinuma
たくさんの人たちが願っていた「高校女子野球の決勝を甲子園で」が、2021年8月、第103回夏の甲子園大会休養日に実現する(22日を予定)。長く女子の野球に冷淡だった日本高野連は、なぜこのタイミングで「女子も甲子園」を許可したのか。そしてこれからの課題は。
全国高等学校女子硬式野球連盟(以下女子高野連)と日本高野連(以下高野連)との交流の歴史、および関係者への取材から、その真相を探った(全3回の3回目/#1、#2から続く)。
1995年に朝日新聞社のキャンペーンに反対した高野連は、四津や堀の訪問によって市井の人々が女子大会を立ち上げたことを、また新聞報道などで女子高野連の活動をある程度は知っていたようだ。しかしその大会を援助しようとか、女子部を作って自分たちの手で女子を育成しようとは考えなかった。
それは女子高野連の活動を尊重したからかもしれないが、女子の受け入れに必要な数々のハードルを、乗り越えるだけの情熱をもてなかったからだろう。
しかしその間に、他の野球連盟は女子野球振興に舵を切っていった。背景にあったのは男子野球人口の減少と、プロ野球選手、吉田えりの誕生(08年)に始まる女子選手の増加である。
08年以降、各種中学硬式野球連盟内に女子チームや女子大会が誕生し、13年には任意のチームだった女子野球日本代表が全日本野球協会の侍ジャパン入り。14年には全日本女子軟式野球連盟が、創設24年で全日本軟式野球連盟(以下全軟連)に加盟を許された。女子硬式野球界も14年、関係諸団体が全日本女子野球連盟の下に統合され、日本野球連盟の傘下に入った。
大きな変化をもたらした女子児童の全国大会
なかでも大きな変化をもたらしたのは、2013年、全軟連と日本野球機構が女子児童の全国大会を作ったことである。「将来母になる子に野球の楽しさを」をスローガンに、全軟連が傘下の地方野球連盟に県代表チームを出すよう要請。それまで女子チームがなかった県にチームが生まれ、根強かった「女が野球なんて」という意識が薄れ始めたのだ。
16年に全軟連が女子中学生の全国大会を作るとこの動きは加速し、高校でも野球を続けたいという女子選手が増加。その結果、女子硬式野球部を創部する高校が次々に現れ、そのペースは最大年7校にも達した。
競技人口の拡大に伴って選手のスキルも上がり、18年には日本代表がワールドカップで6連覇を達成。19年からは一部の男子プロ野球団が大人の女子野球大会やクラブチームを創設し、阪神タイガースには木戸のような女子野球の強力なサポーターも現われた。