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松岡修造も戦慄…「生きていくのに必要ない記憶」高嶋活士が語るパラ転身の契機となったJRA時代の落馬事故の経緯 

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松岡修造

松岡修造Shuzo Matsuoka

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photograph byYuki Suenaga

posted2021/05/30 11:01

松岡修造も戦慄…「生きていくのに必要ない記憶」高嶋活士が語るパラ転身の契機となったJRA時代の落馬事故の経緯<Number Web> photograph by Yuki Suenaga

松岡さん188センチに対し、高嶋選手は161センチ。元ジョッキーらしい体型で、騎乗中は馬とさすがの一体感を見せる

松岡:お父さんは騎手になることをどう思っておられたのでしょう?

高嶋:反対していました。危ないからやめろって。でも、僕はそんなに危なくないんじゃないかって、そのときは思っていたし、動物が好きだったので騎手の道に進みました。

消えてしまった落馬事故の記憶

松岡:騎手としてはどれくらいレースに出ていたんですか?

高嶋:ほぼ毎週、(馬に)乗っていましたね。中央競馬の騎手だったので東京(府中市)、中山(千葉県船橋市)、福島、新潟、小倉などの競馬場でレースに出ていました。デビュー1年目は普通の平地のレースに出ていて、2年目から障害レースに乗るようになって、2013年2月9日の東京競馬場で落馬事故に遭いました。

松岡:事故に遭ったときのことは覚えていらっしゃいますか?

高嶋:それが、何も覚えていないんです。事故の瞬間どころか前日の記憶も抜け落ちています。意識不明で病院に担ぎ込まれて、1週間して意識が戻り、JRAの職員から「高嶋さん、競馬場には車で行かれましたか?」って聞かれても「覚えてないです」って。週末に(馬に)乗る騎手はレース前日の金曜日から競馬場に入るんですけど、自分が何を使って競馬場へ行ったかを思い出せませんでした。

松岡:記憶喪失ということでしょうか……?

高嶋:自分の名前とか、そういうのは覚えていましたけれども、事故の記憶とその前の記憶が消えていました。ただ、後からレース映像を見たら、僕が先輩騎手と先頭を競って逃げていて、障害を飛び越えるときに馬の前足が引っかかり、そのまま背負い投げのような格好で放り出されていました。だから「そうそう、この馬は自分の前に一頭でも馬がいたら走る気を無くしてしまうから、どうにか前に出ようという戦術だったな」と思いました。

松岡:淡々とお話しされていますが、すごく怖くて危険な状況ですよね、それは……。

高嶋:人は怖い記憶を本能的に消すのかなって思いますよね。言ってみれば、生きていくのに必要ない記憶ですから。

【次ページ】 騎手復帰を目指してリハビリに励むも……

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