松岡修造のパラリンピック一直線!BACK NUMBER
松岡修造も戦慄…「生きていくのに必要ない記憶」高嶋活士が語るパラ転身の契機となったJRA時代の落馬事故の経緯
posted2021/05/30 11:01
text by
松岡修造Shuzo Matsuoka
photograph by
Yuki Suenaga
2013年までJRA(中央競馬会)の騎手をしていた高嶋活士選手は中学卒業後、全寮制の競馬学校(千葉県白井市)に入学し、高校生活にあたる3年間を過ごした。競馬学校の同期生の中で成績はトップクラス。デビュー後は将来を嘱望される存在だった。
騎手を目指す子には親が競馬関係の仕事に就いているケースが少なくないが、高嶋選手の場合はごく一般のサラリーマン家庭で育った。なぜ騎手の道に進むことになったのか。松岡さんはその意外な経緯を知って驚いた。(全4回の2回目/#1、#3へ)
#1 JRA騎手からパラ馬術へ転身の高嶋活士が騎乗のコツを「力まない」と語るも、松岡修造は「僕に一番向いてない」 より続く
母の勧めで騎手の道へ
松岡:そもそも活士さんはなぜ騎手になろうと思われたんですか?
高嶋:それがですね、母が家族に隠れて競馬をやっていまして。
松岡:えっ、いきなりお母さんの秘密……!?
高嶋:うちの家族はみんな身長が低くて、僕は161cmで、父も母も姉2人も160cmないんです。だから母は身長が低いことを生かせる騎手という仕事はいいんじゃないかって、僕が中学1年生の終わりに勧めてくれました。
松岡:競馬にハマって大変なことになったとか、そういうお話じゃないんですね。ホッとしました。その頃、何かスポーツはされていたんですか?
高嶋:バスケットボールをやっていました。
松岡:バスケ!? あのー、失礼なことを言いますけど、身長が低いのに、なぜあえてバスケにいきました?
高嶋:姉たちがやっていた影響です。でも、母から騎手の話を聞いてテレビの競馬中継を見てみたら、迫力があってすごいなと思って。そうしたら母が「一回、馬に乗ってみようか」と言うので、家の近くにある乗馬クラブで初めて馬に乗ったんです。それが楽しくて、楽しくて。「馬に乗ることが仕事になってお金がもらえて、生活できるなんていいじゃん」と思って乗馬を習い始め、中学3年生でJRAの競馬学校を受験して合格しました。