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松岡修造も戦慄…「生きていくのに必要ない記憶」高嶋活士が語るパラ転身の契機となったJRA時代の落馬事故の経緯 

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松岡修造

松岡修造Shuzo Matsuoka

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photograph byYuki Suenaga

posted2021/05/30 11:01

松岡修造も戦慄…「生きていくのに必要ない記憶」高嶋活士が語るパラ転身の契機となったJRA時代の落馬事故の経緯<Number Web> photograph by Yuki Suenaga

松岡さん188センチに対し、高嶋選手は161センチ。元ジョッキーらしい体型で、騎乗中は馬とさすがの一体感を見せる

パラ馬術転向のきっかけは東京パラリンピック

松岡:右手と右足は今、どのような状態ですか?

高嶋:右足は足首から先が全く動かせませんが、馬に乗るときはブーツを履いて固定できますし、日常生活では装具をつけて歩けています。右手は箸も持てず、字も書けずですが、鞭を握るくらいはできます。握力でいうと20くらいまでは回復しています。でも左手は50くらいありますから、かなりの差がありますよね。

松岡:騎手を諦めるというのは、活士さんの一つの夢が終わっちゃうということだと思うのですが、その決断はどれくらい重いものでしたか? 

高嶋:もちろん騎手を続けたかったんですけれども、引退を考えていた頃、騎手時代の15期上の先輩で、やはり障害レース中の落馬事故で引退された常石勝義さんがパラ馬術で2020年の東京パラリンピックを目指しているというニュースを見たんです。それで「そういう道もあるのか」と。以来、自分もパラ馬術に行く気満々になって、引退を決めたときにはもう新たな道に目が向いていました。

松岡:それはすごいタイミングでしたね。でも、もし、東京でパラリンピックの開催が決まっていなかったとしても、パラ馬術に転向されていたと思いますか?

高嶋:うーん、(パラ馬術転向は)なかなか考えられなかったでしょうね。

松岡:その前に、また馬に乗ることは怖くなかったんでしょうか? 僕だったら、もう怪我をしたくないから馬に乗る道は選ばないと思います。

高嶋:落馬事故の記憶がないので恐怖心もないですし、馬場馬術なら落ちる(落馬する)気がしません。

松岡:あと、リハビリをすれば騎手に復帰できると言ったお医者さんに対して、「治るって言ったじゃん!」みたいな気持ちにはならなかったんでしょうか?

高嶋:どんな医者も万能じゃないし、まぁ、自分の人生、どうにかなるだろうという考えがあるので。

松岡:状況を受け入れて、「為せば成る」という考え方は、深刻に考えすぎてネガティブ思考に陥ってしまう前に、とりあえず前に一歩進んでみようという姿勢につながりますね。

(構成:高樹ミナ)

#3 高嶋活士が語る競馬と馬術の騎乗の大きな違い…「馬と共にもっと気楽に楽しく」に修造が共感する に続く

高嶋活士(たかしま・かつじ)

1992年12月2日、千葉県生まれ。2011年にJRA騎手としてデビュー。13年2月、障害レース中に落馬事故で脳の3カ所から出血する大けがを負い、右半身に麻痺が残った。2年半に及ぶリハビリの末、15年に騎手免許を返上して引退。JRA通算244戦0勝(うち障害39戦)、最高は2着6回。現役引退直後から馬場馬術を開始し、17年に全日本パラ馬術大会で優勝。20年の全日本では個人、団体の2冠を達成。161センチ、58キロ。愛馬はケネディ・H号。

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