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沢村栄治の“速球伝説”を検証…なぜ打者は「胸元までホップする」「球が二段階に浮き上がる」と“錯覚”したのか

posted2021/03/21 17:01

 
沢村栄治の“速球伝説”を検証…なぜ打者は「胸元までホップする」「球が二段階に浮き上がる」と“錯覚”したのか<Number Web> photograph by Digital Mix Company.

投球練習をする沢村栄治

text by

太田俊明

太田俊明Toshiaki Ota

PROFILE

photograph by

Digital Mix Company.

プロ野球で年間最も活躍した先発完投型投手に贈られる「沢村賞」。その由来となったのは伝説の天才投手、沢村栄治だ。夢見た慶應義塾大学進学を断念して野球選手になった彼は、親族の借金や度重なる徴兵に苦しみ、27歳の若さで戦死した悲運のエースでもある。
そんな沢村栄治の一生を綴った『沢村栄治 裏切られたエース』(文春新書)より、1937年の大阪タイガース戦をもとに、現代のメジャーリーグ最高峰の投手などと比較しながら、沢村の“脅威の速球”について検証した一節を抜粋する(全2回の1回目/#2はこちら)。

 1937(昭和12)年の職業野球リーグは、前年より1チーム増えて8チームで争われることになった。この年の1月に、株式会社後楽園野球倶楽部が創立され、新球団・後楽園イーグルスが誕生したのである。

 イーグルスの初代監督には、大阪タイガースの監督の座を石本秀一に追われた森茂雄が就任し、名古屋軍から前年秋季大会の首位打者である中根之、アメリカ国籍の名捕手バッキー・ハリス、日系アメリカ人の高橋吉雄らが入団した。

 きりのよい8チームとなったこの年のペナントレースは、春季と秋季の2シーズン制で争われることになり、春季リーグ戦は3月から7月までの4カ月間にわたって各チームが8回総当たりの56試合を戦い、その勝率で優勝を争う方式になった。

打倒巨人、打倒栄治で結束した大阪タイガース

 春季リーグ戦の本命は、打倒巨人、打倒栄治で結束した大阪タイガースだった。チーム作りを担当するゼネラルマネジャー、そして現場でチームを指揮する監督、この両面で傑出した能力を持つ石本率いる大阪タイガースは、巨人に敗れて2位に終わった前年秋から今春にかけて大量10選手を補強していた。

 その中で即戦力としてもっとも注目されたのが、関西大学のエースで同校のリーグ戦8連覇の立役者となった西村幸生(1977年野球殿堂入り)だった。

 関西で無敵を誇った西村は、東京に乗り込むや“レベルの低い関西のことだから”と冷ややかに見ていた東京六大学のチームを次々に破って野球ファンをうならせ、大学ナンバーワン投手の称号を勝ち取っていた。

 栄治と同じ宇治山田の出身で、栄治が卒業した明倫小学校のライバルである厚生小学校を卒業していた。そのため、職業野球の大エースになった栄治に強烈なライバル心を持ち続け、巨人を含む多くの球団の誘いを蹴ってタイガースに入団して打倒栄治に闘志を燃やしていたのだった。

 常勝・石本は、若林、景浦、藤村、藤井、松木、御園生といった、前年秋の時点で既に投打の総合力で巨人を凌駕していたメンバーに、西村ら新人10人を加えた新チームを2月に甲子園に集め、巨人の茂林寺を上回る猛練習を課して徹底的に鍛えあげた。

 合宿の終盤には、甲子園球場のすべての出入り口に内側から鍵をかけて関係者以外の出入りを禁止した上で、天敵の栄治を打ち崩すための特訓を敢行した。球の速い若手の打撃投手を正規のプレートより前から投げさせ、その全力投球の球に振り遅れぬよう打ち込むのだ。この練習の発案者は主将の松木謙治郎で、松木は明大野球部時代に、当時日本一の投手だった早大の伊達正男の速球を打つために同様の練習をした経験があったという。

【次ページ】 栄治の負担を軽減する補強はできなかった巨人軍

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