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沢村栄治の“速球伝説”を検証…なぜ打者は「胸元までホップする」「球が二段階に浮き上がる」と“錯覚”したのか
text by
太田俊明Toshiaki Ota
photograph byDigital Mix Company.
posted2021/03/21 17:01
投球練習をする沢村栄治
栄治の負担を軽減する補強はできなかった巨人軍
一方、タイガースの挑戦を受けて立つ前年優勝の巨人軍の補強は、思うように進まなかった。この年の目玉である関西大学の西村投手をタイガースにさらわれ、台湾の嘉義農林から俊足の呉昌征(1995年野球殿堂入り)、下関商業出の好守の平山菊二を獲得したのが目立つ程度で、栄治の負担を軽減する投手の補強は皆無だった。
わずかな希望は、身長191センチの大型投手スタルヒンがようやく力をつけつつあることだったが、その一方で大日本東京野球倶楽部以来のメンバーだった畑福俊英投手が、新球団後楽園イーグルスに移籍していった。
結局巨人軍は、栄治、スタルヒン、青柴憲一に、野手兼任の前川八郎という前年を下回る顔ぶれの投手陣で新たな年のリーグ戦に臨むことになり、右肩の痛みが癒えず、心に鬱積を抱えた栄治が前年同様大黒柱となって、大補強で投打に厚みを増したタイガースと対峙することになったのである。
試合開始のサイレンが鳴っている間に一死をとる栄治
3月26日、春季リーグ戦が上井草球場で開幕した。
大会3日目に登場した巨人軍は、対名古屋金鯱戦の先発のマウンドに当然のようにエース沢村栄治を送った。この開幕戦の4日前に「私は野球を憎んでいます」と父宛の手紙に書いた栄治は、そんなそぶりを周囲にはまったく見せず、3対0と名古屋金鯱を完封してみせた。打たれた安打4本、奪った3振6個、与えた4球2個という安定した投球だった。
栄治はコントロールがよく、常に打者を攻めてストライク先行で投げ込んでいく。打者は初めから次々とストライクがくるし、追い込まれると栄治の速球とドロップの両方に対応するのが難しいので、初球からどちらかに山を張って打ちにいく。
そのため、栄治が投げる試合は進行が早く、たいていは1時間15分前後で終わった。試合開始のサイレンが鳴っている間に一死をとることは珍しくなく、まれにはサイレンの余韻が残るうちに二死を取ることもあった。
当時の職業野球は、1日に同じ球場で2試合、3試合と行うので、観客を飽きさせずにより多くの試合を見てもらうには試合時間を短くする必要があった。誕生したばかりの職業野球連盟は〈プレイ・スピーディー〉、〈学生野球よりも、すべてを早く〉をモットーとして選手たちにハッパをかけていたが、栄治はその点でも職業野球に欠かせない投手だった。
与四球の少なさ、試合時間の短さから、栄治は現代の投手のようにコーナーを丹念につく投球でなく、ストレート、ドロップともど真ん中を狙ってストライクだけを放るような投球パターンだったと推測される。それでも、多くの打者は栄治の球をまともに前に飛ばすことができなかったのだ。