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東京の“消えた野球場” 巨人阪神“伝統の一戦”が誕生したナゾの「洲崎球場」、いまは何がある?
text by
鼠入昌史Masashi Soiri
photograph byKYODO
posted2020/11/21 06:00
伝説の投手・沢村栄治も投げた「洲崎球場」。いまは何があるのか?
洲崎球場でカニは歩いていたのか?
さて洲崎球場は1936年から1943年頃まであったという。プロ野球のリーグ戦が初めて行われたのが1936年。それより前は東京瓦斯の用地だった場所(その前は貯木場、さらに前には養魚場だったようだ)を利用して、10月13日に完成。その冬の12月に巨人と阪神の間で優勝決定戦が3試合制で行われている(筆者は阪神ファンなので結果は語らないことにする)。
で、肝心のカニである。令和の時代のオフィス街の洲崎球場跡地を見る限り、とうていカニが歩いていたようには思えない。だが、古い航空写真を見てみると、洲崎球場のあった頃にはすぐそばには海が広がっていたことがわかる。海っぺりの野球場と言うと千葉ロッテの本拠地・ZOZOマリンスタジアムを思い浮かべるが、なにしろ洲崎球場は戦前の野球場。それもわずか2カ月ほどの突貫工事で建設したというから、満潮の折には浸水したとしても不思議ではない。事実、1938年3月15日の巨人対金鯱軍の試合は浸水が理由で5回コールドゲーム。野球場が水に浸かって試合中止、などということが実際にあったのだ(ちなみに今でも大雨が降るとヤクルト二軍の戸田球場も浸水しますね……)。だから、カニが外野をうろうろしていた可能性も、充分にあるのではないかと思う。
もちろん、今では洲崎球場跡地の先は埋め立てが進んでいてカニが這い回る余地はない。洲崎球場跡地前を南に進むとオフィス街から倉庫街に姿を変えて、さらに行けば東西線の車両が眠る東京メトロ深川車両基地。JR東日本の越中島貨物駅もその海側にあり、それよりもうひとつ海側の埋立地は潮見、そして辰巳と続く。かつて海っぺりだった洲崎球場は、すっかり内陸になってしまった。カニさん、どこへやら。
最後にこの地域と野球、そして鉄道の関わりのエピソードを紹介しよう。東西線東陽町駅の方に戻り、洲崎球場側から永代通りを挟んだ反対側。巨大なマンションが建ち並ぶ一帯があるが、ここにはかつて汽車製造という鉄道車両の工場があった。この汽車製造のルーツのひとつが1901年に合併した平岡工場。初めて国産電車を製造したことで知られる日本鉄道界のパイオニアだ。そして、平岡工場を創業したのが平岡凞という鉄道技師である。平岡は、アメリカに留学して鉄道技術とともに野球を学び、帰国後の1878年に新橋で仲間の鉄道技師たちとともに「新橋アスレチック倶楽部」なる野球チームをつくった。日本で初の本格的な野球チームだという。日本の野球と鉄道は、肩を並べて歩んできた関係なのだ。だから、日本シリーズには鉄道会社の球団が出てくれたらよかったな……と阪神ファンの筆者は思うのである。
(写真=鼠入昌史)