プロ野球PRESSBACK NUMBER
東京の“消えた野球場” 巨人阪神“伝統の一戦”が誕生したナゾの「洲崎球場」、いまは何がある?
text by
鼠入昌史Masashi Soiri
photograph byKYODO
posted2020/11/21 06:00
伝説の投手・沢村栄治も投げた「洲崎球場」。いまは何があるのか?
最寄り駅は東西線・東陽町駅だが…
洲崎球場は今の住所で東京都江東区新砂にあった。最寄り駅は東西線の東陽町駅である。ただ、球場名になっている“洲崎”という地域はそれより西側、木場駅の南側一帯を指していたようだ。となれば、木場駅で降りて歩いていくのがよさそうだ。この区間の東西線は永代通りの地下を走る。木場駅の出入り口を出たところもとうぜん永代通りに面している。そこから小さな運河をひとつ渡って南側の埋立地へと歩いてゆく。
すると、最初に見つけたのは洲崎神社という名の神社であった。元禄時代、徳川綱吉が生母・桂昌院の守本尊である江戸城内の弁財天を移して建立したという。江戸時代には洲崎弁天社と呼ばれ、江戸湾一帯を見渡せる明媚な地。歌川広重も描いたし、『江戸名所図会』にも載っている江戸きっての観光名所のひとつだった。
ただ、海っぺりの立地には悩みもあった。洲崎神社境内には「津波警告の碑」という小さな碑が建つ。江戸時代の中頃、1791年にこの一帯に高潮が襲来して多数の家屋が流されて多くの人が命を落としたことがあった。そこで幕府は洲崎神社周辺を買い上げて人が住むことを禁じ、波除地としたという。もちろん今でもこの一帯はゼロメートル地帯だが、沖合に埋立地が広がっていって海っぺりではなくなった。ともあれ、こうした石碑ひとつからも人と自然との戦いの歴史がわかるのである。
かつてあった「洲崎パラダイス」とは…?
と、自然の脅威を感じながら洲崎球場のあったであろう東側に向かって歩く。歩いたのは小さな緑地帯。ここはかつて運河だった場所で、埋め立てて緑地になっているようだ。いわゆる“深川”とよばれるエリアにあたる。少しゆくと、大門通りと名乗る6車線の巨大な通りと交差する。ここには洲崎橋という橋があった。