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渡辺明が棋聖戦直後に新幹線で語っていた、藤井聡太の“違いすぎる終盤力” 「現状では藤井さんに勝つプランがありません」
text by
大川慎太郎Shintaro Okawa
photograph byWataru Sato
posted2021/06/05 17:01
17歳の才に屈した渡辺明は、1カ月後に悲願の名人位を獲得した
将棋が仕事のサラリーマンのよう
一人になってから、彼の人間性について思いを巡らせた。なぜ棋士人生を揺るがすような痛恨事を、その日のうちにこれだけ率直に語ることができるのか。
海外のアスリートの堂々とした言動に影響を受けたと聞いたこともある。無難な発言に終始する先輩棋士への対抗心もキャリア初期にはあったのかもしれない。
過去のインタビューで「あなたにとって将棋とは何か」と私が問うた時に、渡辺が「仕事です」と返してきたことを思い出した。だから将棋に対して過剰なロマンや思い入れを抱くことはない。自分の指す戦法に愛着を持つ棋士も多いが、渡辺は「使い捨て」とはっきり言ってしまう。
仕事なので、対局がない日は午前10時から午後6時まで規則的に勉強をする。勝敗に一喜一憂せず毎日、将棋盤に向かっている。週末は趣味の競馬や欧州サッカーを観るために休息をとる。勝負師というよりはまるでサラリーマンだ。
将棋界の特徴として、各棋戦は1年をサイクルに行われ、棋士は必ず出場権が与えられる。屈辱的な敗北を喫しても、毎年チャンスがあるのだ。「4年に一度」というフレーズは、将棋界には存在しない。だから浮き沈みをできるだけ小さくして、実力を発揮しやすい状態に自分を置くことが大事なのだ。
36歳3カ月で悲願の名人位に就いた
それを理解し、誰よりも実践しているのが渡辺だ。だからこそ大勝負の前に負けを想定する話も平気でできるのではないか。少なくとも、この時はそう思っていた。
1カ月後、戦う場所は上座から下座に変わっていた。
藤井聡太に敗れて失冠したのと同じ関西将棋会館「御上段の間」で、渡辺は再び大一番に挑んでいた。豊島将之名人に挑戦し、第5局を終えて3勝2敗。初の名人位にあと1勝と迫っていたのだ。
中盤を過ぎ、形勢の針は渡辺側に傾いていた。将棋界で伝統と格式を誇る名人位は特別な地位にある。渡辺はタイトル25期を誇るが、なぜか名人には縁がなかった。最高峰の竜王は11期も獲得しているにもかかわらず、だ。
午後5時38分。豊島が投了を告げた。
新名人誕生。渡辺は悲願の名人位に就いた。悲願。私はいまそう書いた。だってそうだろう。36歳3カ月で初めて名人を獲得したのは史上4番目の高齢記録だ。これまでどれだけ苦労したというのか――。