プロレス写真記者の眼BACK NUMBER
祝喜寿アントニオ猪木の伝説検証!(3)
燃える闘魂の胃袋が、世界を食らう。
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2020/02/28 19:00
「日中友好プロレス大会」を初開催した1990年。朝のランニングの後、屋台に立ち寄って美味しい麺を地元の人達と一緒にすすった。
力道山の「プロレスラーらしさ」を継いだ男。
新日本プロレスの地方巡業では、試合後はいつも、後援者たちとの宴会が催されていた。
そういった宴で、大相撲で優勝したときに使うような特大の杯に氷を入れてそれにウィスキーをボトルから注いで一気に飲み干すという荒業が流行ったことがある。
豪快さを誇るような話では他に、川崎の焼肉店の店主から聞いたエピソードがある。
若い頃の猪木は、その焼肉店でどんぶりに山盛りにしたユッケへ生卵を落としてスプーンですくって食べていたのだという。ユッケを掬って口に放り込み、すぐさま酒を飲み、またユッケを頬張って、また酒を飲んで……どんぶりの中の、真っ赤な生肉を飲み込んでいく猪木の姿を想像してみてほしい。
このプロレスラーらしい豪快さ――力道山が求めたプロレスラーらしさ、強い男としてのパフォーマンスの系譜は、猪木が引き継いだのだと私は思っている。
酒宴を重ね、世界中で仲良くなる。
旧ソ連のレスラーを新日本プロレスのリングにあげた時のこと。
猪木はグルジア地方(現ジョージア)を直接訪れて、現地の関係者らと徹底的にウォッカとワインで乾杯を重ねていた。
過激ではあるが、これが猪木流コミュニケーションのひとつの手段なのだ。
これで猪木は遠い異国の地から、優秀な格闘家たちを続々と来日させてきたのである。
ちょうどペレストロイカ時代のモスクワで、初めてプロレス興行を行った時のこと。大会後のパーティでは、旧ソ連の政府高官やイベント関係者とウォッカでの乾杯が延々と続いていた。その大会の責任者としてパーティの主役となっていた猪木はしたたかに酔っぱらっていたのだが、それでも、大笑いしながらコサックダンスまで披露していた。