“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
選手権を味わった興國・樺山諒乃介。
ライバルに教わった「10番」の意味。
posted2020/01/09 08:00
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph by
Takahito Ando
「昨年のお正月は複雑な思いでテレビを観ていました」
今年度の高校サッカー選手権で初出場を果たした大阪代表・興國高校。そのナンバー10を背負う樺山諒乃介(2年)にとって、前回大会は悔しさと羨ましさが入り混じったものであったという。
高校進学時、地元・大阪のRIP ACE SCジュニアユースに所属していた樺山の元には多くJクラブユースや強豪高校から声が掛かった。青森山田、流通経済大柏、ガンバ大阪ユース、セレッソ大阪U-18と、いずれもこの世代のトップランクのチームばかりだ。
「僕の目標は、プロになって活躍すること。それを考えるとJユースに進んで早くプロになりたいという気持ちがありました。でも、もう1つの目標は全国(の舞台)で活躍すること。その中でも小さい頃からずっと観てきた選手権は『あの舞台に立ちたい』と思っていました」
生まれ育った大阪に愛着があった樺山は、ギリギリまで悩み、最終的に興國とC大阪U-18の2つに絞った。
興國の練習は「頭が疲れた」。
「セレッソは昔からずっと応援しているチームだったので、憧れというか、そこのユースに行けるという喜びもありましたし、早くJリーグでプレーしたいという気持ちがあったので(最終候補として)考えていました。逆に、高校サッカーはプロとしてのいろんな選択肢が増えるし、選手権に出れば自分の名前をより多くの人に知ってもらえる。どちらにもメリットがありました。
でも、その中で興國の練習会に参加した時に、大きな衝撃を受けたんです。フィジカルだけではなく、頭にも大きな負荷がかかった。ゲーム中もめちゃくちゃ頭を使わないといけなくて、練習後は頭が本当に疲れ切っていた。それが自分の中でも大きな刺激になって、興國なら自分が伸びると思ったんです」
彼が決断を下した時、一番驚いていたのは興國を率いる内野智章監督だった。
「まさか来てもらえるとは思っていなかった」
興國は古橋亨梧ら多くのJリーガーを輩出しているが、樺山が入学した当時は、選手権はもちろん、全国大会には1度も出場したことがなく、さらにプリンスリーグ関西の1つ下のリーグにあたる大阪府リーグ1部に所属していた。
それでも興國には志の高い選手たちがこぞって入学してきた。特に樺山と同年代には同じ大阪のIRIS生野からFW杉浦力斗、アイリスFC住吉からCB中島超男、さらには県外からも有能な選手が次々と集まった。彼らもまた、興國のサッカーに「刺激」を受けて入学してきたのだ。
そんな仲間たちと切磋琢磨する樺山は1年生時から出番を掴むと、チームも悲願のプリンスリーグ関西の昇格を手にした。だが、着実に成長を遂げていく一方で、全国の舞台となるインターハイ、選手権はともに予選敗退を喫していた。