One story of the fieldBACK NUMBER
窓越しの少年はいつもうつむいて。
大船渡が佐々木朗希に見た夢。(上)
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byShigeki Yamamoto
posted2019/10/18 20:00
ドラフト会議用の記者会見場に入る佐々木。学校ではなく、三陸町にある公民館が使用された。
初日の練習を見て、野球部に入ることは諦めた。
卒業すると、千葉は青山学院大へ進学した。部員120人、東京の強豪。初日の練習を見て、野球部に入ることは諦めた。
「打球の速さとか、肩の強さが全然違うんだ。こらあ、俺には無理だと思ってあぎらめた」
野球において、田舎の公立校というコンプレックスはいつまでもついてまわった。
そのまま東京で就職した。野球とも甲子園とも故郷・大船渡とも距離ができた。
ただ、あの夏、一瞬でもよぎった甲子園という夢は心の奥底に消えずに残っていた。
そんな千葉に1984年の春、転機がおとずれた。母校が初めてセンバツで甲子園出場を決めたのだ。
会社を辞めて、甲子園のスタンドへ。
「こんなこと生きている間に二度とねえと思ったよ。そんで、いてもたってもいられねえから、会社辞めたんだよ。そのまま東京から甲子園に行ったんだ。優勝した岩倉って高校あったろ? あそこに準決勝で負けるまで、4試合、全部見たよ。俺、あのスタンドにいたんだよ」
初出場した無名の公立校は多々良学園や明徳という強豪を次々と破り、岩手県勢として初めてベスト4に進出した。
全国に“大船渡旋風”を巻き起こした。
自分たちと同じように中学の仲間たちが地元に集まっただけのチームが、PL学園など全国の強豪と肩を並べる舞台にまで駆け上がっていく。その奇跡を千葉は見た。花冷えの甲子園球場で目に焼きつけた。
辞表を提出したとき、その理由を聞いて上司は笑ったという。甲子園で母校の応援をするために会社を辞める。他の者には理解できないかもしれない。ただ、千葉にとってはあの奇跡を目の前で見たことによって、人生にひとつの区切りをつけることができたのだ。