プロレス写真記者の眼BACK NUMBER
G1で狂犬達が限界知らずの死闘!
石井智宏とジョン・モクスリーの魂。
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2019/07/23 11:30
リング中央での、凄まじい音を響かせての頭突き合戦! 意地と意地のぶつかり合いに、会場もヒートアップ!
石井も、モクスリーと暴虐を楽しんだ。
一方の石井も、モクスリーとの体の張り合いを堪能しているようだった。イスの殴り合いも半端じゃなかった。いくつかのイスは、その度に無残に壊れていった。
石井は場外のテーブルに寝かしたモクスリーにコーナーポストから高々とダイブしてのしかかった。
試合後、石井は控室までたどり着くのがやっとの体だった。
私は、なにか……石井とモクスリーの2人にしか創造できない凄まじい特別なものを、見せつけられているような気持ちになった。
長州の下で厳しく鍛えあげられてきた石井。
石井は、6月26日の長州力の引退試合では涙していた。
そのあふれ出た涙の中には、長州への感謝の気持ちがあった。WARからWJ、そしてリキプロと石井はプロレスを続けるために所属を変えて、新日本プロレスにたどり着いていた。新日本プロレスへの道は長州によって開かれたと言ってもいい。
石井がいた当時、リキプロの道場のちゃんこ場には“長州力”と書かれたステッカーが張られた大きな透明プラスチックの入れ物が置かれていた。その中には百円玉や十円玉がギッシリ詰まっていた。金銭的には苦しい時代だった。食費がピンチになった時に備えて、ポケットの小銭をみんなでその容器にためていた。それを管理していたのが、石井だった。そんな環境にあっても希望を胸に、蒸し風呂のような道場で黙々と汗を流し続けたのが石井なのだ。
とにかく体がレスラーとしては小さい分、死ぬほど練習して鍛え続ける……そんな長州の弟子も43歳になった。その無骨なファイトが、後楽園ホールから世界に発信され続けた。昔から石井の後楽園ホールのメインイベントは、ハズレのない鉄板と言われていた。なので、実はイギリスやアメリカでも「イシイ」のファンが多いのである。