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たった1人の自転車部から12年……。
30歳の初山翔、夢のグランツール。
text by
杉園昌之Masayuki Sugizono
photograph bySonoko Tanaka
posted2019/05/21 16:30
144kmを先頭で走り続けた初山翔。世界三大自転車レースの「ジロ」で躍動する日本人がたちまち時の人となった。
「ここで待っていれば、誰か来るから」
とはいえ、高卒後すぐに渡欧できたわけではない。1年間は東京都八王子市の「YOU CAN」というクラブチームで走りながらプロの道を模索。
そんなとき、当時U-23日本代表で指導を受けていた大門監督からイタリアのU-23カテゴリーに属するアマチュアチームを紹介され、チャレンジする機会を得る。
現地の選手寮の前まで連れて行ってもらい、「ここで待っていれば、誰か来るから」と荷物を持ったまま、ぽつんとひとり残された。そこから、イタリア生活は始まった。イタリア語も全く話せないなか、周りに日本人は誰もいない。インターネットの環境も整っておらず、ストレスがたまるばかりでメンタル面がもたなかった。
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レベルの高い場所に身を置き、自力で這い上がる覚悟を持っていたものの、厳しい生活環境と圧倒的なレベル差に打ちのめされた。19歳から21歳までの約3年間を思い返すと、どうしても苦い顔になる。
「めちゃくちゃきつかった。選手層の厚さとプロになる厳しさを感じましたし、自分自身も競技レベルを向上させる精神状態ではなかった。生きていくのが精いっぱいでした。強いて良かったことと言えば、イタリアに順応し、言語を覚えたことくらいですね」
「ジロを走るなんて……」(初山)
日本に帰国してからは実業団で出直した。宇都宮ブリッツェン、チームブリヂストンアンカーで走り、こつこつと努力を重ねる。'16年には全日本選手権ロードレースで初優勝し、実力を証明した。1度は挫折したが、ヨーロッパでプロになる夢をあきらめたことはなかった。
かつてイタリア行きでお世話になった大門氏を再び頼り、'18年にはイタリアのプロコンチネンタルチーム「NIPPOヴィーニファンティーニ・ファイザネ」と契約を結ぶ。同年からイタリアに活動拠点を置き、ヨーロッパのタフなレースをいくつも経験した。そして、かつては考えもしなかったグランツールの切符をつかんだ。
「10年前、イタリアで走っていましたが、その頃は箸にも棒にもかからない選手でした。あのときの僕を知っているイタリア人たちに初山が“ジロを走る”と言っても誰も信じないと思いますよ。僕自身もその当時、ジロを走るなんて想像もしなかったので」