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鈴木みのるがライガーと闘いたい理由。
17年前の電話と、プロレス界復帰。 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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posted2019/05/14 11:00

鈴木みのるがライガーと闘いたい理由。17年前の電話と、プロレス界復帰。<Number Web> photograph by AFLO

2002年に対戦した際の獣神サンダー・ライガーと鈴木みのる。17年前にかわした電話のやり取りが今明らかに!

別々の道を歩んだ2人。

 もともと鈴木にとってライガーは、新日本の若手時代、もっとも仲のいい先輩のひとりだった。それが'89年春、鈴木は新日本を退団して第2次UWFに移籍。ライガーは素顔から覆面レスラーの“獣神ライガー”に変身して、第二のレスラー人生がスタートし、ふたりは別々の道を歩むこととなる。

 その後、鈴木はUWF、プロフェッショナルレスリング藤原組を経て、'93年に船木誠勝らとパンクラスを旗揚げ。プロレスから、総合格闘技へと足を踏み出す。そして'95年5月にケン(ウェイン)・シャムロックを破り、キング・オブ・パンクラスの王座を奪取。しかし、'96年に頚椎ヘルニアの大怪我を負い長期欠場。そこから連敗を重ねるようになる。完全実力主義、リアルファイトのリングでは、勝てなくなった選手に居場所はない。鈴木は肉体的にも精神的にも追い込まれた。

 筆者が以前インタビューしたとき、鈴木は当時のことをこう語っていた。

「自分が理想として掲げていた格闘技の世界では、俺みたいに勝てなくなったヤツは身を引くしかない。だから、あの頃は引退することばかり考えていた。本当は辞めたくないのに、自分の気持ちに嘘をついてね」

「新日本は逃げねえからな」

 そして2002年に引退を決意。最後のケジメとして、若手時代のライバルである佐々木健介とパンクラスのリングで、新人の頃の気持ちに戻ってがむしゃらに闘い、燃え尽きようと考えた。当時、ちょうど新日本とパンクラスは交流戦を行なっていた時期であり、新日本所属だった健介とのカードを組むことが可能だったのだ。

 ところが対戦を正式発表したあと、健介は足のケガなどを理由にこの一戦を辞退。鈴木の“最後の試合”は宙に浮いてしまった。

「あの時は、自分が情けなかったね。その前は、DEEPのリングでUWFの後輩である田村潔司と闘うという話もあったんだけど、それも流れて。勝てなくなったヤツには、自分の“死に場所”すら選べないんだなって」

 そんな時、鈴木の携帯電話が鳴る。相手は獣神サンダー・ライガーだった。

「健介戦の話がなくなって、もうどこにも行き場がなくなったとき、ライガーから電話がかかってきてさ。『おい、健介がおまえとやらないって聞いたぞ? なんでアイツやんねえんだよ!』って言われてね、『何回聞いても“できない”としか言わないんですよ』『なんなんだアイツ』『知らないっスよ』みたいなやりとりがあって。

 そのあと『そこまで話が進んでいたのに、どんな理由があるにしろ“出られない”ってなったら、おまえは健介が逃げたと思うだろ?』って言われて、『思います』って答えたら、『ってことは新日本がおまえから逃げたってことになるんだよ。俺は絶対それを許さない。俺がやる。新日本は逃げねえからな。マスク脱いででもなんでもいいよ、やるよ』って言ってきてね。俺、感動しちゃったんだよ」

 かつての先輩が、鈴木の行き場のない思いを受け止めてくれたのだ。

【次ページ】 「すべてを失う覚悟」でプロレスに復帰。

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