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酒井高徳が悩み抜いて選んだ道。
2つのルーツと、代表を退く決断。
text by
寺野典子Noriko Terano
photograph byAFLO
posted2019/04/24 07:00
熱心なサポーターと喜びを分かち合う酒井高徳。代表から去った後もクラブに欠かせない選手として力を発揮している。
南アフリカで見た日本代表選手の姿。
プロ2年目のとき、日本代表に選出された。2010年1月、すでに突破が決まっていたアジアカップ予選のメンバーとしてだ。若手主体のチームだったが、最年少の酒井に出場機会はなかった。
その半年後、ワールドカップ南アフリカ大会のサポートメンバーとして「日本代表選手のあるべき姿」を目の当たりにした。戦術変更で先発の座を譲ったベテランをはじめ、バックアッパーに回った選手が欲を押し殺してチームのためにアドバイスを送るなど、献身的に仕事をしていた。
試合で活躍する選手以上に、彼らの姿が酒井の胸に刻まれた。
「あのときは、『僕が僕のために何かを得たい』とか、『ここで何かを学ぼう』とか、そういう気持ちで行動してはいけないと自然に思えました。同時に、日本代表のためにできることはなんでもやりたいという気持ちがどんどん強くなったんです」
U-15から各年代別代表にも選ばれていたが、A代表を意識するようになったのは南アフリカ大会だったのだ。
そのとき酒井は「クラブ」と「代表」というダブルの基準を持ったのだ。
拙くてもドイツ語で会話して。
2012年1月、ドイツ・シュツットガルトへ移籍。当時はまったくドイツ語が話せず、言われ放題だったと笑う。しかし、チームメイトだった岡崎慎司がマインツへ移籍したのを機に通訳とも離れた。「ドイツで仕事をするのだから、ドイツ語を学ぶのは当然のこと。それは礼儀」とドイツ語を覚え始めたのだ。
拙いドイツ語ではあったものの、しっかりとコミュニケーションをとる酒井にチームメイトたちは「高徳はドイツ人だよ」と言うようになり、ハンブルガーSVでは、ブンデスリーガ初の日本人キャプテンを担うようになった。
周囲と異なる外見にコンプレックスを抱いていた幼少期の酒井が、サッカー選手として注目を集めた1つの理由は「突出したフィジカル能力」が挙げられる。しかしドイツでは、それは武器にはならなかった。逆に、試合を読むバランス感覚やチームのためにという献身性などの「日本人らしさ」が彼の武器となり、信頼を得るに至ったのだ。