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クライフは本当はW杯に行けなかった!?
オランダvs.ベルギー、伝説の誤審。
text by
ロベルト・ノタリアニRoberto Notarianni
photograph byL'Equipe
posted2018/09/26 07:30
11番のユニフォームがヤン・ベルアイエン。当時のベルギー代表の中心的選手として大いに活躍していた。
サッカーの歴史を変えていた線審。
「そのときはあの行為があまり重要とは思っていなかったんだ」と、後に彼は『ルソワール』紙のインタビューで答えている。
「決定的な瞬間だったと気づいたのは、人々があのシーンを話題にし始めてからで、とりわけオランダがワールドカップで旋風を巻き起こしてからだった。結局のところ線審はオフサイドのフラッグをあげて、自分でも気づかないままサッカーの歴史を変えてしまったわけだ」
オランダはワールドカップで世界に大きな衝撃を与え、クライフはその年の暮れに自身3度目となるバロンドールを受賞した。
だが、そのことについてベルアイエンはさほど悔しがってはいない。
彼が後悔の念を滲ませるのは、それ以前に所属していたベールショット・アントワープで出場した別の試合、試合中に自らPKを外し、PK戦でもしくじって優勝をクラブ・ブルージュにさらわれた1968年のベルギーカップ決勝だった。
「暑さと感情の高ぶりで、ロッカールームに戻ったら気を失ってしまったほどだった。あまりにショックで、妻と2人で1週間は泣いていた」
3部リーグなのに代表に招集!?
その後に移籍したアンデルレヒトでレギュラーから外されたときには涙はなかった。問題はそれよりも生活だった。
「自宅のあったフーグストラテンからブリュッセルまで、ベンチに座るかリザーブチームでプレーするために180kmの道のりを通うのが嫌になったんだ」
1975年春に移籍したユニオン・サンジロワーズはベルギー3部リーグに所属するチームだったが、それでも驚くことに彼はベルギー代表に3度選ばれている。
「僕は3部から代表に選ばれた史上2人目の選手になった。僕を選んだことでゲタルスは随分批判されたけど、彼はまったく気にしていなかった」
オランダを歴史の舞台から消し去っていたかも知れない男は、33回の代表歴を刻みながら1986年に自身がアマチュアとしてプレーをはじめたフーグストラテンVVで現役を引退した。この年行われたメキシコワールドカップ本大会にオランダは出場できなかった。
予選でオランダを破ったのはベルギーだったが、突破を決めたジョルジュ・グルンのヘディングによる得点が、取り消されることは今度はなかったのだった。