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森保監督と東京世代、目標は高く。
「“おめでとう”の言葉を目指して」
posted2018/04/09 07:00
text by
二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph by
Ichisei Hiramatsu
ちょっと後づけなんですけどね。
実直で嘘をつけない人は、そう言って柔らかく笑った。
「その年にメダルを獲ったんだなって、あらためて思うようになったんです」
メキシコ五輪で銅メダルを獲得した1968年に生を受けた森保一が、とりたてて意識することもなかった「アステカの奇跡」を身近に感じるようになったのは、東京五輪に臨む男子サッカー日本代表監督への“打診”がきっかけだった。
「(日本サッカー協会からは)打診というよりもまず現状のリサーチでした。もし正式な話をいただけるのであれば『優先して考えたい』と返答したんです。自国開催の五輪ですから、話が進展していけばいいなという思いはありました」
3度、日本一に導いたサンフレッチェ広島の監督を退任して約3カ月、その運命に導かれるように10月中旬「森保五輪代表監督」は誕生した――。
五輪憲章にあるオリンピズム(五輪精神)の根本原則の一つには「人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てる」とある。
長崎と広島、平和の思いは強くある。
長崎と広島。
彼は2つの被爆地を故郷とする。小学1年から高校まで長崎で生活を送り、長崎日大高を卒業後はサンフレッチェの前身マツダサッカー部に入団。以降、長崎よりも長い年月を広島で過ごすことになる。
平和への思いは、強くある。
少年時代、夏休み中ながら長崎に原爆が投下された8月9日に登校して平和学習を受けた思い出は、今も心に残っている。父や叔父から原爆の体験を耳にしてきた。
「父が3歳のころだったそうです。爆風で家の窓ガラスがパーンと割れたことは覚えていると言っていました。叔父は背中に何かもの凄く熱いものを感じて、海に飛び込んだという話をしてくれました」
母方の祖父は静岡・掛川の出身だが、広島で仕事に従事していた際に原爆に遭遇した。壊滅した町の復旧作業を手伝って一度掛川に戻ってから、地元消防団の一員として再び広島の地に向かったという。