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伝説の五輪4×100mリレーの陰で……。
高瀬慧、五輪メダルなきリスタート。
posted2017/04/27 08:00
text by
宝田将志Shoji Takarada
photograph by
AFLO
リオデジャネイロ五輪を終えて帰国してから、高瀬慧はなかなか次へのアクションを起こせずにいた。
「4年後を目指すなら、もう一度、あれをやるのか」
そう考えると、いくら2020年の次回五輪が東京で開催されると言われても腰が上がらなかった。
この4年間は限界に近い負荷を自らに掛け、鍛え抜いてきたという思いがあった。出力を上げようと、重りを乗せたソリを砂場で引くメニューも導入した。その追い込み方は、指導する佐久間和彦コーチをして「血へどを吐くほど」と言わしめる苛烈さだった。
ケンブリッジよりも、高瀬の方がタイムはよかった。
しかし、自身2度目となった五輪は200m予選敗退。調子自体は悪くなかったというが、走りの歯車が噛み合わなかった。'12年ロンドン五輪も、'15年世界選手権も200mでは準決勝まで進んでいただけに落胆は小さくなかった。何より、この結果によって400mリレーのメンバーに入れなかったことが痛かった。
高瀬は近年、日本のリレーチームを支えてきたメンバーの1人である。
'13年世界選手権 3走、6位
'14年世界リレー 2走、5位
'14年仁川アジア大会 4走、2位
どの走順にも適応できる技術の高さはチームにとって貴重で、リオでも3走・桐生祥秀-4走・ケンブリッジ飛鳥の「A」と、3走・高瀬-4走・桐生の「B」の2パターンの走順が準備され、事前合宿のタイムトライアルでは、高瀬が入ったBの方が好タイムを叩き出していたのだ。
だが結局は、100mで準決勝に進んだケンブリッジがメンバーに入り、日本男子トラック種目では史上最高成績となる銀メダルを獲得。帰国後、通常の生活に戻った高瀬は「200mの走りがあれでは仕方ない」と自分を納得させようとしていた。
ただ、簡単に割り切ってしまえるほど、軽い気持ちで競技と向き合ってきた訳ではない。バトンをつなぎ快挙を成し遂げた4人は各種表彰やメディアに引っ張りダコとなったが、「最初は遠ざけていた部分もありましたよ、そういうテレビとかネットのニュースとか」という。