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世界1位のDJを焦らせた谷原秀人の技。
マスターズに再び出るための10年間。
text by
舩越園子Sonoko Funakoshi
photograph bySonoko Funakoshi
posted2017/03/31 08:00
係員やボランティア、誰に声をかけられても笑顔で対応する谷原秀人は、現地であっという間に人気者に。
失敗に終わった2004年のアメリカ挑戦。
谷原が世界に挑み始めたのは今から12年以上も前だ。2004年の秋、当時は米ツアーへの一発勝負の登竜門とされていたQスクール(予選会)を突破し、2005年から本格参戦を開始した。
だが、彼はアメリカの生活に馴染めなかった。むしゃくしゃしたとき、ストレスを解消する術が見つからず、「日本語で話せる人がいない。日本ならパチンコとかカラオケとかあるのに……」と気持ちはすさむ一方だった。
自ずと成績は下降した。いや、成績が下降したからストレスが増えたのか、どちらが先か後かは、もはや定かではなかった。
得意のはずのショートゲームにも自信を失いかけた。ショートゲーム専門コーチの門を叩いたこともあった。だが頭の中は混乱し、歩むべき道が見えなくなっていった。
そして、その年の夏、彼はシーズン半ばで米ツアーを去り、日本へ帰っていった。
再び世界の舞台に立つための10年間。
それが「逃げ帰った」のではなく、世界への自分なりの挑戦の仕方を見つけるための撤退であることを私が知ったのは翌年だった。2006年の全英オープンで1年ぶりに表舞台に戻ってきた谷原は、ロイヤルリバプールで優勝争いに絡み、見事5位になった。
その奮闘ぶりが評価され、2007年マスターズには特別招待で初出場。しかし、最下位に近い91位で予選落ち。「悔しいっす」と唇を噛んだ。
何が悔しかったのか――。オーガスタではドローボールが有利と言われ、フェード打ちの谷原はドローを打つための練習を大会前に行なってからオーガスタに乗り込んだ。だが、付け焼刃の練習がすぐさま実を結ぶような次元ではないことを、あのとき彼は痛感させられた。それが何より悔しかったのだ。
以後、谷原が世界の舞台で注目されたことは、この10年間無かったに等しい。しかし、世界ではまるで目立たなかったその間、彼はひっそり、じっくり、自身の再挑戦のために努力を積み重ねていた。