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飯伏幸太、WWEと新日に同時参戦中!?
2010年代型フリーレスラーの形とは。
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by2016 WWE, Inc. All Rights Reserved.
posted2016/10/23 11:00
「飯伏プロレス研究所」所属を名乗る飯伏は、団体の枠を軽々と飛び越えて日米のファンを魅了している。
'90年代から'00年代前半はフリー全盛期だった。
'90年代に入ると、日本のプロレス界は多団体時代に突入。すると、海外ではなく、日本国内の様々な団体に掛け持ちで参戦。もしくは、数カ月、年単位で団体を渡り歩く、新しいカタチのフリーレスラーが数多く出現した。
団体間の対抗戦や交流戦も頻繁に組まれるようになり、日本のプロレスはボーダーレスなものとなっていった。
それでも、当時の“2大メジャー”である新日本と全日本を同時進行で掛け持ち参戦する選手はおらず、フリー選手のメジャーでの活躍は、新日本か全日本のどちらかに限られていた。
それが大きく変わったのは、'99年ごろから。急激な総合格闘技人気の高まりとともに、フリーとなってPRIDEなどで結果を出したレスラーの価値が高騰。
特に新日本プロレスのビッグマッチは、小川直也、藤田和之、高山善廣、安田忠夫らが、主に単発でメインクラスのカードに名を連ねることが多くなる。特に高山善廣は、プロレスリング・ノア、新日本プロレス、そしてPRIDE、『猪木祭』と、プロレス・格闘技のメジャー団体を席巻、“帝王”と呼ばれるようになる。
2000年代前半は、格闘技系フリーレスラーの時代だったと言えるだろう。
ファイトマネー高騰によってコスト削減の流れに。
しかし、これによって、フリーのトップレスラーたちのファイトマネーが高騰。さらに、普段のシリーズに参戦しない選手たちが、東京ドームなどのビッグマッチだけメインカードに名を連ねることで、シリーズの流れがズタズタになり、新日本プロレスは団体としての力を急激に失っていった。
その反省から、新日本は2000年代後半から、棚橋弘至や中邑真輔といった団体所属選手を中心とした体制にシフトチェンジ。これによってコストを抑え、ビックマッチ用の場当たり的なマッチメイクも姿を消し、選手やスタッフの頑張りもあり人気を回復していった。
そして2010年代からは、鈴木みのる、柴田勝頼といったフリーのレスラーであっても、新日本には所属選手に近いような、ほぼフルタイム出場となっている(柴田は今年から所属選手契約に変更)。メジャー団体の力が強い時代になったと言えるだろう。
現在、世界的に見ても、トップレスラーとして活躍するためには、WWE、新日本のどちらかと契約する必要があるようなカタチになりつつある。
そこにいま、風穴を開けんとしているのが飯伏幸太だ。