プロレスのじかんBACK NUMBER
同期の中邑とは生き様が違う。
後藤洋央紀の意地と怒りが見たい!
posted2016/01/27 11:00
text by
井上崇宏Takahiro Inoue
photograph by
Essei Hara
「1月4日の飯伏(幸太)戦に始まり、G1でオカダ(・カズチカ)と棚橋(弘至)さんとやって、カール・アンダーソンとやって、同期の後藤(洋央紀)と田口(隆祐)ともやったし。『もう決まった』っていう感じじゃないですかね」
1月末をもって新日本プロレスを退団することとなった中邑真輔。今回の決断には、思い込みも、思いつきも、衝動もあるし、ある種の算段もあった。一概に理由はひとつではなかったし、当然、悩みもしたという。しかし2015年、自身とゆかりのある選手たちとの対戦を運命的にことごとく引き寄せたことで、中邑は新日本のリングでは「やりきった」と実感するにいたった。とくに最後の最後で、後藤と田口という同期と激突できたことは、本人にとっても奇跡的な展開だったことだろう。
今回、海外に闘いの場を求めた中邑と同じ2002年に新日本に入門した後藤洋央紀。ヤングライオン時代が団体の迷走期というロストジェネレーションは、当時、黒のショートタイツに首から赤いタオルをかけるといういで立ちで、昭和期の『ワールドプロレスリング』のオープニング曲を入場曲として使用していた。無論、アントニオ猪木をイメージしたもので、今でも試合の直前には、猪木や長州力といった昭和のスターたちの闘う姿勢をイメージして臨むという。
どんなに苦しくとも、新日本と共に生きてきた後藤。
ある日、ひとりの同期選手が若手にもかかわらず、他団体に移籍することになった。その選手と仲の良かった後藤は、「一緒に行かないか? 今よりギャラがいいよ」と声をかけられたが、「カネのために新日本に入ったわけじゃない」と断わった。また、ほかのある選手は将来を不安視して、引退を決意した。そのときにも「俺が新日本を辞めるのは、本当に身体が動かなくなったときか、死ぬときだ」と思った。
実際、後藤はデビュー前にアマレス時代からの古傷である肩の負傷が再発し、新日本をクビになったときも、「絶対に新日本に戻る」と決意し、独自にリハビリとトレーニングを行ない、再入門テストをぶっちぎりで駆け抜けたことがある。