野球善哉BACK NUMBER
球場の食堂で目撃した山本昌の気遣い。
32年の現役生活を支えた実直な姿勢。
text by
氏原英明Hideaki Ujihara
photograph byKyodo News
posted2015/12/31 12:00
現役最終登板で、山本昌は涙を見せた。しかし多くの野球ファンが彼を思い出す時、その表情は底抜けに明るい笑顔なのではないだろうか。
野球界の「奇数年が危ない」という都市伝説。
プロ入り5年目のアメリカ留学もまた、山本昌を劇的に変えた出来事だった。
1988年、山本昌はシーズンオフのフォールリーグなどの参加ではなく、シーズン中にメジャーリーグのマイナーに野球留学した。留学と言えば聞こえはいいが、チームがシーズンを戦っている最中である。いわば戦力外のようなものだった。
「プロ野球には奇数年が危ないという都市伝説的なものがありまして、その当時の僕は5年目だった。だから、今年は頑張んなきゃいけないというところで、アメリカに留学にすることになりました。春季キャンプでみんなでベロビーチまで行ったんですけど、キャンプが終わると、みんな僕を置いて日本へ帰っちゃうんです。なんて冷たい人たちなんだと、ほとんど捨てられたような気分だった」
最初の1カ月は腐りそうになったが、マイナーのチームメイトの真剣な眼差しを目の当たりにするうちに、山本昌は改心した。そして、そこで人生の師とするアイク生原氏と出会い、彼の代名詞であるスクリューボールを習得したのだ。
ドジャースのマイナーで結果を残した山本昌は、同年に日本へ帰国。そこでプロ初勝利を挙げた。その後の成績は周知のとおりである。人生とは不思議なものだ。
「僕は誰かに助けてもらわないと這い上がれなかった」
ただ山本昌は、2011年の出来事も、アメリカ留学でのことも深いところでつながっていると捉えている。
「人生のどこにチャンスが転がっているかわからない。どこに運があるか、ツキがあったかで人生は違います。確かに僕には運がありました。でも何が僕に運を呼んだかというと、それまでしっかりやっていたことだと思うんです。『神頼み』という言葉がありますが、普段からきっちりしていないと神頼みはできません」
「日本で最初の4年の成績はよくありませんでしたが、身体を鍛えて一生懸命やっていました。僕のような力のない選手は、誰かに助けてもらわないと這い上がっていけません。でも、一生懸命やっていないと誰にも助けてもらえないんです。自分なりに一生懸命やっていて、そこにアメリカ留学、アイクさんとの出会いがあって、たまたまスクリューボールがあったんだと思う」