サムライブルーの原材料BACK NUMBER
「日本サッカーの父」を偲んで――。
クラマー氏と岡野最高顧問の絆。
text by
二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph byAFLO
posted2015/12/10 10:30
「最高の瞬間は日本がメキシコ五輪で銅メダルを獲得したとき」と語っていたクラマー氏。写真は東京五輪時、岡野俊一郎コーチ(当時)と共に。
釜本、杉山、八重樫といった教え子たちが快挙を。
技術、戦術理解の向上が図られていく。それとともに岡野が感銘を受けたのが「スポーツマンとしての在り方」であった。
「日々どう過ごせばいいか、彼自身が示してくれるわけですよ。練習に対する取り組み方。夜、選手の部屋を回って、風邪をひかないように布団をかけてやっていました。テーピングを教えてくれたのも彼です。この時代は、ケガを怖がったらサッカーなんかやれないっていうような考えでした。でもデットマールは『誰かがケガをすれば戦力の低下になる。だからケガの予防をやっていこう』と。
当時、日本にはテープはありませんでした。僕が薬局で大きな絆創膏を買ってきて、それを裂いて更衣室に貼っておくんですよ。練習試合とかでケガをするとね、彼自身が薬を調合して患部に塗って、包帯を巻いたり、テーピングをしたり……。練習は厳しい。でも、何より選手を大切にしました。それが選手たちも伝わっていったから、心酔していったんです」
釜本邦茂、杉山隆一、八重樫茂生、宮本征勝……。東京五輪はベスト8、そして4年後のメキシコ五輪での快挙につながっていく。コーチの岡野を前にして、主将の八重樫はこう言ったという。
「岡野さん、僕はクラマーのために戦うんです!」
あの銅メダルには、クラマーに対する恩返しがこめられていた。
「僕とお前はブルーダーなんだ」
その後もクラマーと日本の関係は続いた。
'69年には千葉で開催された第1回FIFAコーチングスクールのスクールマスターを務め、以降も指導者として何度も来日を果たしている。その一方、バイエルン・ミュンヘンで欧州チャンピオンズカップ2連覇など本国でも輝かしい実績を残してきた。
クラマーと岡野は、いつしか「兄弟」と呼び合うようになっていた。
「デットマールには弟がいました。でも(第二次世界大戦の)ベルリン陥落の日に亡くなってしまって……。彼のお母さんは文学好きで、僕がヘルマン・ヘッセ、トーマス・マン、ハンス・カロッサの小説を読んでいると言うと、喜んでくれてね。僕のことを気に入ってくれて手紙をくれるといつも『ヨーロッパの母より』と書いてありました。デットマールも『母がそういうんだから、俺とお前はブルーダー(ドイツ語で兄弟の意味)なんだ』と言ってくれましたから」