サムライブルーの原材料BACK NUMBER
「日本サッカーの父」を偲んで――。
クラマー氏と岡野最高顧問の絆。
posted2015/12/10 10:30
text by
二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph by
AFLO
2015年6月9日。
Jリーグの前身である日本サッカーリーグ(JSL)の発足50年記念パーティーで、故郷ドイツに住むデットマール・クラマーからのメッセージが読み上げられていた。
「日本は私にとって第二の母国です。この国が大好きですし、日本の人々も大好きです。この国で出会ったたくさんの親しい友人は、私にとって兄弟のような存在です」
多くのサッカー関係者が背筋を伸ばすようにして聞いていたのがとても、とても印象的だった。
会場に行きたかった、みんなに会いたかった――。
それから3カ月後。母国ドイツに住む彼は90歳で天国に旅立った。
彼は「日本サッカーの父」と呼ばれた。
1960年、日本代表コーチに招聘されると選手たちを基礎から叩きこみ、'64年の東京五輪ではベスト8に導いた。帰国の際にはJSLの創設、コーチ制度の確立など日本サッカーの強化、育成における改革を提言した。
薫陶を受けた教え子たちの活躍によって'68年メキシコ五輪の銅メダルが達成された。このときFIFA技術委員として大会に参加していたクラマーは、死力を尽くして戦い抜いた選手たちを見て涙したという。
日本代表のみならず日本サッカー自体にも、クラマーの手によって急激な発展がもたらされた。「日本サッカーの父」は、日本を、日本サッカーをこよなく愛した。
クラマーの通訳を務めた岡野俊一郎最高顧問。
日本サッカー協会最高顧問の岡野俊一郎氏は、彼のもとで通訳兼アシスタントコーチを務めていた。今でもクラマーとの最初の出会いのことは、今も克明に記憶している。
「もう55年前になります。協会から連絡が来て、僕は羽田空港まで迎えにいきました。どんな人か予備知識もないなかで会ってみると、背は僕より低くて、35歳だというのに頭皮も寂しい。でも目が鋭くてね、声が低音でよく響いた。握手すると、非常に力強い感じがありました」