Number ExBACK NUMBER
“145点”の悪夢から20年――。
エディー・ジョーンズが挑む決闘。
posted2015/09/07 16:45
text by
Number編集部Sports Graphic Number
photograph by
Tadayuki Minamoto
20年前の“あの試合”のことを、エディー・ジョーンズは鮮明に記憶していた。
「よく覚えています。1995年、第3回ワールドカップ。あの日はシドニーの自宅で、妻と一緒に居間のテレビで観ていました。オールブラックスのプレーがすばらしかったですね。しかし対戦相手のチームが、しかるべき準備をして試合に臨んでいないことは明らかでした。努力、勇気、思考。すべてが欠如していた。ワールドカップの戦いだというのに、彼らはやるべきことを何もしようとしなかった」
その日のオールブラックスの「対戦相手」、それはほかならぬ祖父母と妻の母国であり、当時、自身がプロのコーチとしてキャリアを歩み出すチャンスを与えてくれた国、日本だった。
「そのうえ、彼らは絶対にしてはいけないことをしていました。何かって? 『ギブアップ』ですよ。だから1分に1点以上も取られたんです」
17対145。日本ラグビーにかかわる者にとって、忘れることのむずかしい呪縛のようなスコア。後に“ブルームフォンテーンの悲劇”と呼ばれるこの一戦で、日本代表はニュージーランド代表に屈辱的な惨敗を喫した。思えば平尾誠二、吉田義人、薫田真広、堀越正巳、元木由記雄……スター選手たちを擁しながら3戦全敗に終わったこのW杯をひとつの分水嶺として、国内のラグビー人気は長きにわたる下降局面に突入していった。
「世界で勝つ」というスタンダードに取り残された。
奇しくも同じ年の5月に野茂英雄が米国でメジャーリーグ・デビューを果たし、2年後にはサッカー日本代表がアジア最終予選を初めて突破、W杯の扉をあけた。低迷を続けるラグビーと相反するかのように、野球とサッカーの二大スポーツがみるみる世界との距離を縮めていった季節でもあった。気がつけば、「世界で勝つ日本」が時代のスタンダードとなっていたのである。
それから20年――その間、ラグビー日本代表はW杯の舞台でただの1勝すら挙げることができていない。
しかしエディー・ジョーンズは猛進を続けていた。'96年の東海大ラグビー部コーチ就任を皮切りに、スーパーラグビーのブランビーズやオーストラリア代表“ワラビーズ”のヘッドコーチとして白星の山を築くと、'07年には南ア代表のアドバイザーとしてW杯優勝も経験。'09年からサントリーサンゴリアスを「国内無敵」に押し上げた後、'12年4月、満を持してジャパンのヘッドコーチに着任したのだった。