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韓国戦の舞台は伝説のチャムシル。
日本サッカー、3つ目の分岐点に!?  

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戸塚啓

戸塚啓Kei Totsuka

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photograph byNaoki Ogura/JMPA

posted2013/07/27 08:02

韓国戦の舞台は伝説のチャムシル。日本サッカー、3つ目の分岐点に!? <Number Web> photograph by Naoki Ogura/JMPA

ロンドン五輪の3位決定戦で韓国に敗れ、膝をつく権田。しかし現在の彼は、過去のリベンジではなく、未来の優勝へのモチベーションに突き動かされている。

「チャムシル」という響きは、いつでも特別な思いを沸き立たせる。1988年のソウル五輪のメイン会場となったこのスタジアムで、日本サッカーはふたつの転換期を迎えたからだ。

 ひとつ目は1992年5月のU-19アジアユース選手権1次予選だ。西野朗監督と山本昌邦コーチに率いられ、高校生だったGK川口能活がゴールマウスに立つチームは、韓国を1対0で退けたのである。

 当時の日本サッカー界には、韓国への苦手意識が渦巻いていた。'91年7月の日韓定期戦が0対1の敗北に終わると、韓国のキャプテンだったチェ・スンホは「100年経っても日本は韓国に勝てない」と話した。翌'92年1月のバルセロナ五輪最終予選でも、終盤まで粘ったものの0対1で屈した。スコアこそクロスゲームになるが、勝つのはいつも韓国という結果が繰り返されていた。

 そうしたなかで、西野監督のチームは勝利をつかんだのである。その後、10月の最終予選準決勝で韓国に屈し、残念ながら日本はワールドユースに出場することができなかった。しかし3位入賞が評価され、西野監督と山本コーチは新たなミッションへ突き進むこととなる。

 アトランタ五輪予選の突破だ。韓国と互角の攻防を展開したU-19代表をプロトタイプとするチームは、果たして、28年ぶりに世界への扉を開くこととなる。

W杯アジア最終予選で崖っぷちに立たされ、日韓戦を迎えた'97年。

 ふたつ目は1997年11月のフランスW杯アジア最終予選である。

 5カ国のホーム&アウェイで争われた最終予選は、韓国が2試合を残してW杯出場を決める。ウズベキスタンとの開幕戦後は5試合連続で勝利から見放された日本は、UAEの後塵を拝して3位となっていた。

 アジアに与えられていたW杯出場枠は3.5で、日本は2位に浮上しなければならない。

 もはや本当にあとがなくなった状況下で、チャムシルでの日韓戦を迎えた。

 ここで日本は、出色のパフォーマンスを見せる。開始早々に名波浩が電撃的な先制ゴールをあげると、呂比須ワグナーの追加点で前半のうちに2対0とする。

 そのまま逃げ切った日本は、UAEにかわって2位に浮上した。この時のチャムシルで敗れていたら、日本はフランスW杯出場を逃していたかもしれない。もっと言えば、日本サッカーの歴史そのものが変わっていたかもしれないのだ。

【次ページ】 U-19準々決勝、ロンドン五輪3位決定戦と連敗した権田。

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