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その戦う姿勢は時代を越える……。
バレー界の名将・松平康隆氏の遺訓。 

text by

松原孝臣

松原孝臣Takaomi Matsubara

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photograph byKYODO

posted2012/01/17 10:30

その戦う姿勢は時代を越える……。バレー界の名将・松平康隆氏の遺訓。<Number Web> photograph by KYODO

1972年9月、ミュンヘン五輪男子バレーボールで優勝し、選手に胴上げされる松平康隆監督。日本人として初めてバレーボールの世界殿堂入りを果たし、2000年には国際バレーボール連盟から20世紀最優秀監督にも選ばれた

 松平康隆氏が昨年の大晦日、肺気腫のため東京都内の病院で死去した。81歳だった。

 松平氏と言えば、1972年のミュンヘン五輪で、バレーボール全日本男子に金メダルをもたらしたことで知られる。オリンピックで男子が頂点に立ったのは後にも先にもこの大会のみである。

 まぎれもなく、日本のスポーツの歴史に名を刻んだ指揮官は、いかに名将となり得たか。時間差攻撃やクイック攻撃など、創意工夫はあまりにも有名だが、それとは異なった側面から、その姿をたどっておきたい。

 松平氏は、のちに、監督としての原点は東京五輪であったと語っている。

 当時、松平氏は全日本のコーチにあった。この大会で銅メダルを獲得している。その頃、世界の中心をなしていた東欧勢との力の差を考えれば、十分賞賛に値する成績であった。

 ところがメディアでは称えられることもなく、小さな扱いにとどまった。とくに、東京五輪を記録した市川崑監督の映画『東京オリンピック』にはまったく映っていなかったことが屈辱だった。

 こうした扱いの最大の理由は、女子が金メダルを獲ったことにあった。

 そのとき、男子も金メダルを獲得して、屈辱を晴らそうと決意したのだ。

金メダルを獲得するために「あらゆる手段を取った」松平監督。

 そして8年計画を定めた松平氏は、そのためにあらゆる手段を取った。それはコートの外でも同様だった。

 ミュンヘン五輪開催を翌年に控えた1971年、東ドイツを日本に呼ぼうと考えた。シミュレーションを重ねた結果、東ドイツとオリンピックの決勝で対戦すると分析。そこで日本に招待し、東ドイツの情報収集を行なおうと考えたのである。

 だが、その当時、日本は東ドイツを国家として承認していなかったため、そのままでは日本に呼ぶことはできない。すると松平氏は、当時の外務大臣を訪ね、直談判する。そして来日時の扱いについてようやく承諾を得ると、すぐさま東ドイツへと渡って交渉にあたり、来日を実現させたのである。そして行なわれた親善試合をテレビカメラで徹底的に撮影したという。

【次ページ】 自らテレビ番組を企画し、スポンサーも探した。

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