チャンピオンズリーグの真髄BACK NUMBER
因縁の決勝。
text by
杉山茂樹Shigeki Sugiyama
photograph byEnrico Calderoni/AFLO SPORT
posted2007/05/08 00:00
5月23日、チャンピオンズリーグ決勝が行われる舞台は、2004年アテネ五輪のメイン会場だ。別名は「スポイロス・ルイス」。五輪期間中に、何度もそこに足を運んでいる僕は、わずかそれが3年前の話だとはいえ、つい感傷的な気分に誘われる。ワクワク気分で、現地をかけずり回った当時の思い出が、いま沸々と蘇ってくるのだ。まさか3年後、アテネがチャンピオンズリーグ決勝の舞台になろうとは。自分自身が、いまそうした形で再び現地を訪れる予定でいようとは。まさに因果は巡るである。
僕がチャンピオンズリーグ決勝を初めて観戦した場所もアテネになる。いまから13年前、93〜94年シーズンの話だ。対戦カードはミラン対バルセロナ。かつての五輪スタジアムが舞台だった。
当時、下馬評で圧倒的に優位な立場にいたのはバルサ。試合前に配布された報道資料に掲載されていた識者アンケートによれば、クライフ監督率いる通称“ドリームチーム”は、その約8割から支持を集めていた。しかし結果は、ミランの勝ち。スコアも4−0という一方的なものだった。
番狂わせの原因はハッキリしていた。
バルサが国内リーグの優勝を決めたのは、チャンピオンズリーグ決勝戦の4日前。国内リーグ戦の最終節に、首位デポルティーボをひっくり返す、土壇場での優勝だった。デューキッチというデポルティーボの選手が、タイムアップ寸前に得たPKを外したがために転がり込んだ優勝で、その劇的さに、選手たちは翌朝まで飲み明かすことになった。水曜日の決勝を前に、日曜の朝方まで、感激に酔いしれてしまったのだ。
バルサのアテネ入りは月曜日。しかしいっぽうのミランは、この時すでに現地で、万全の態勢で待ちかまえていた。準備に手抜かりはなかった。
キックオフ直後の動きで、両者のコンディションの差は一目瞭然となった。後半13分、デサイーの4点目が決まると、バルセロナのサポーターは、これ以上、痛々しい光景を見ることはできないと、ぞろぞろとスタンドを後にした。試合終了まで、観戦していた人は3割程度。4日前のお祭りムードは、まさに雲散霧消。彼らはドッチラケした哀れな表情で、アテネを後にした。
この頃からだったのではないだろうか。国内リーグ優勝のタイトルが、軽くなり始めたのは。まずチャンピオンズリーグありきに、ビッグクラブの方針が転換し始めたのは。
それはともかく、バルササポーターのみならず、現地を訪れたミランサポーターも、試合前まで、お祭り気分を存分に堪能していた。アテネといえばエーゲ海。彼らの多くは、観光船に乗りこみ、エーゲ海クルーズを楽しんだ。バルササポーター、ミランサポーターそれぞれを別々に乗せた多くの船が、エーゲ海を行き来する様は、壮観という他なかった。お互いはすれ違いざまに手を振り合い、和気藹々とエールを交換しあっていた。美しい光景そのものだった。
これは、決勝に進出したチームのサポーターだけに許される特権だ。彼らには、優越感という特別な意識を味わうことができる。それに旅気分が加わる。決勝の地が観光名所であればあるほど、高揚感は膨らむ。いま、現地を訪れる予定でいるリバプール、ミランそれぞれのサポーターは、アテネという地に、さぞ淡い思いをはせていることだろう。
その決勝戦の観戦チケットは、以下のように配分される。リバプール3分の1、ミラン3分の1、地元3分の1。アテネ五輪スタジアムの収容人員は約7万5千人なので、計算上では両軍サポーターは、2万5千人ずつアテネの地を訪れることになる。しかし、同じカードで行われた2年前の決勝は、6万9千人を収容するイスタンブールのスタンドに、両軍サポーターが、2万3千人ずつが綺麗に収まったわけではない。数で断然上回ったのはリバプールで、地元に割り当てられた中立地帯にまで、赤のユニフォームの群れを広げていた。イスタンブールの人たちが、リバプールにせっせとチケットを売りさばいたからに他ならない。
前半0−3で折り返したリバプールが、後半3−3に追いつき、PK戦をモノにするという劇的な展開は、リバプールホームと化したスタンド風景と、深い関係があったというべきだろう。いったい今回、アテネ五輪スタジアムには、どのような模様が描かれるのか。
2年前と同じ状況ならば、リバプールにプラスアルファの力が働くことは間違いない。