ジーコ・ジャパン ドイツへの道BACK NUMBER

2006年 ドイツW杯総括 ジーコジャパンとは何だったのか。 

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木ノ原句望

木ノ原句望Kumi Kinohara

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photograph byKaoru Watanabe(JMPA)

posted2006/07/03 00:00

2006年 ドイツW杯総括 ジーコジャパンとは何だったのか。<Number Web> photograph by Kaoru Watanabe(JMPA)

 選手やチームの分析力に優れているジーコ監督がそこに気づいてなかったとは思えないのだが、彼の対応に差がなかったのは選手の可能性に賭けていたということだろう。しかし、ジーコ監督の期待と現実とのギャップは最後まで埋められることはなかった。

 当初は、選手を大人扱いしながらも、指揮官はプロとしての厳しさは求め続けていた。2004年2月、俗にキャバクラ事件と呼ばれている国内組選手の夜間無断外出発覚時には、ジーコ監督は当該選手を次のW杯1次予選戦のメンバーから外した。プロ意識の未熟さを問う指揮官の対応は、実に適切なものだった。また、2003年キリンカップで、選手が思うようなレベルにないと判断した時には、最終ラインを総取替えした。だがそのドラスティックさが、任期後半は影を潜めてしまった。

 きっかけはアジアカップ優勝だっただろう。それ以降、チームは“ファミリー”になり、代表選手の入れ替えは減り、指揮官の中に選手の固定化と序列が生まれた。そして、それが大会での采配に影響した。

 長いチーム作りの課程で戦いを共にして来た、チームの基盤となる選手を代えたくなかったことは理解できる。だが、監督も嘆いた炎天下での午後3時のキックオフの試合を2戦連続で戦うともなれば、ベンチ選手を効果的に起用することなしにW杯を戦い抜くことは難しい。

 だが、オーストラリア戦で先発したFW柳沢の動きが落ちても、「FWを代えたくなかった」と言い、切れの戻らない同選手を続くクロアチア戦でも先発に起用し、ブラジル戦ではあまり調子のよくないMF中村選手を最後まで起用した。

 それも、監督が持っていた序列が優先された結果であり、なおかつ、欧州リーグでプレーする彼らの経験に頼ったということだろう。海外組には海外のリーグでプレーするだけの質がある。W杯予選突破を課された監督のよりどころだったのは無理もない。それは、しかし、W杯本番でも最後まで監督の中にあり、それが、国内組だが元気のいい選手の起用をためらわせたのではないか。逆に言えば、そこまでジーコ監督は自ら選んだ選手を信じていたということになる。

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