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敗北感と涙の先に。 イチローを襲ったはじめての感情。
text by
石田雄太Yuta Ishida
photograph byKoji Asakura
posted2008/04/03 17:00
イチローを追っていたNHKのテレビカメラは、そっと涙を拭い、カメラに背中を向けるイチローの姿を捉えていた。イチローは、今でも涙を流した理由を、把握できていない。
「わからないですね。悔しさが含まれていないわけはない。でも、それだけではないことは自分でもわかっているんです。ただ、それが何なのかが、わからない。プロに入って2年目、オリックスで二軍行きを告げられたとき、悔しくて泣きました。あのときの涙は、悔し涙だって言い切れます。でも去年の涙は、悔しさがすべてではない。悔しさと別のものがあったんでしょうね」
悔しさと別に芽生えた感情とは何かイチローはその答えを出そうとしなかった。
「でも、今の僕にとっては、泣いたことではなくて、その後に感じたことの方に大きな意味があるんです。あそこまで気持ちが乱れて、それでも次の打席に入らなければならなかった。あの打席は、僕にとっては大きな挑戦でしたね」
第3打席、ショートゴロに倒れて首位打者が完全に遠退いてしまったのが、5回裏。センターを守りながら、涙を流したのは6回表。そして7回裏、イチローは先頭バッターとして打席に向かった。
「そもそも僕は、他の人をほとんど相手にしてこなかったので、ああいう形で誰かに負けるということもなかったんです。だから、あの打席は、ここで結果を出せる自分でありたいと思って向かった打席でした」
イチローの第4打席、相手はなおもミルウッド。
初球は外角、低く外れた91マイルのストレート。そして、2球目は外角低めへの、同じ91マイルのストレートだった。イチローはそのボールを、いつにも増して強く見えるスイングで、ピッチャーの足下に弾き返した。
「打席に入るまでのことは何も覚えてないんです。結果を出すことだけに集中しようと思ったんですけど、でも全然、切り替わってない。ずーっと引きずったままなんですよ。悔しさを引きずっているというより、混乱し続けているという感じかな。だから、打ったカウントも覚えていないし、とにかく鮮明に残っているのは、打って、ボールがピッチャーの足下を抜けて、センターに転がっていった、そのことだけです。結果を出せる自分であるために向かった打席で、結果を出すことができた。引きずりながら出したことに意味がありますよね。切り替えて結果を出せるものなら、切り替えられたことに意味はありますし、そうでありたいとも思いますけど、引きずってしまうものなんですよね、人間って……というか、僕は引きずってしまうんです。だから、引きずっているのに結果を出さなきゃいけない。そこを表現できたという満足感です。引きずらないことよりも、引きずってなお結果を出すことを考えていましたから、そこにはちょっとした満足感がありましたね」
ヒットを打ったイチローは、ゆっくりと一塁ベースに辿り着いた。
「みんなよくやりますけど、ヒットを打ったあと、二塁を窺うような姿勢を見せるじゃないですか。僕はまったくやらないんですけど、あれをさらにしないで、ゆっくりベースタッチするんです。一塁ベースで終わりって感じのときは、僕がけっこう嬉しいときです(笑)」
(続きは Number700号 で)