Number ExBACK NUMBER
敗北感と涙の先に。 イチローを襲ったはじめての感情。
text by
石田雄太Yuta Ishida
photograph byKoji Asakura
posted2008/04/03 17:00
その時、稀代のバットマンにはどんな思いが去来していたのか――。
特別な一日は、いつか。
イチローにそう訊ねると、彼はしばらく押し黙ったあと、こう言った。
「特別な一日ですか……ないですね。この日は特別なのかなと周りの人が思う日はあったとしても、それは僕にとって特別なわけではありません。僕の中には特別なものとしては残ってないんです。だからこのテーマは僕にはふさわしくないですよ」
Numberがイチローに、これまでのベストゲームはどれかと問えば、ベストゲームなどないと言われ、先駆者としてどうかと問いかければ、先駆者という自覚はないと切り返される。
そして、特別な一日などはないと、これも真っ向から否定されてしまった。イチローに、言葉で括ったテーマは与えるべきではないのかもしれない。イチローは“特別”という言葉を安易に使わない。オリックスで210安打を打った日も、阪神大震災を乗り越えてリーグ制覇を果たした日も、初めての日本一を勝ち取った日も、今のイチローは「特別な感じはしない」と言い切る。メジャー1年目に首位打者を確定させた日も、MVPを獲得した日も、さらには257安打という当時のシーズン最多安打の記録を塗り替えた日も、そしてWBCで日本代表を世界一に導いた日も。
「特別って言われても、たぶん、それって僕の中には普通にあることなんですよね。そういうふうに人が言う特別なことを、僕は特別だとは捉えていない。何かを感じた日とか、感性をくすぐられた日というなら、たくさんあると思いますけど、それも一瞬のことですからね。いろんなことがあったとしても、今では別にどうっていうことはない。一つのことを超えたとき、僕はその次のステージに行けたとは思いませんから。それは、そのときに行けたというだけの話で、今も行けているわけではない。だから、僕の中で特別だというふうには残らないんです。そういう割り切り方のできる自分は、わりと好きですよ(笑)」
見るものにとっては特別な一日でも、イチローがそれを特別なものとして心の中に残さないからこそ、次から次へ、見るものに特別な一日を提供し続けることができるのだろう。ただし、イチローの言葉の中に、話をつなぐヒントはあった。
特別な一日はなくても、何かを感じた一日ならある。イチローは、そんな一日について、話し始めた。
「あの時は、今までグラウンドの上で出たことのない感情が生まれました。涙を流した後、ここでどういう自分でいられるのかということを見てみたかったんです」
2007年9月29日。
去年、イチローの3度目の首位打者獲得が絶望的となった日である。マリナーズのシーズン161試合目となる、シアトルでのレンジャーズ戦。6回表の守備についたイチローは、初めて味わう敗北感に包まれていた。