「ダービーの内閣総理大臣賞よりも天皇盾のほうがほしい」
オーナーブリーダーとして一世を風靡したメジロ牧場の創設者・北野豊吉の言葉である。「盾獲り」を最大目標としたメジロの馬は、6頭で天皇賞を7勝するという輝かしい成績をおさめた。そのため「メジロといえば天皇賞」というイメージを誰もが抱くようになった。
しかし、実は、2着4回、3着1回と惜敗が多く、勝つことのできなかった日本ダービーも、メジロの歴史に非常に大きな影響を及ぼしているのだ。
初めてダービーに出走したメジロの馬は、鍋掛牧場で生産され、北野が所有し、大久保末吉が管理したメジロオーだった。「戦国ダービー」と呼ばれた1961年の第28回日本ダービーで、同馬は32頭立ての大外32番枠を引いた。3月に未勝利を脱し、前走の平場で2勝目を挙げたばかり。23番人気という低評価は妥当と言えた。
ところが、最後の直線、メジロオーは凄まじい末脚で追い込み、1番人気のハクシヨウとまったくの横並びでゴールした。長い写真判定の結果、ハクシヨウが鼻差で勝っていた。「髪の毛一本の差」と言われたほどの、競馬史に残る大接戦であった。

「おやじさんは、これは馬主の格で負けたんだ、と」
長年にわたってメジロ牧場のマネジメントを担当した岩崎伸道はこう振り返る。
「まだメジロ牧場がなく、私がメジロに入る10年以上前のことでしたが、そのダービーの話はしょっちゅう聞いていました。相当悔しかったのでしょう。向こうは天下の尾形藤吉厩舎で、馬主は多くの名馬を持つ西博さん。こっちは大久保末吉厩舎で、馬主はまだぜんぜん有名ではない北野豊吉。あのころの写真判定は今ほど緻密ではなかったので、勝ったとは言わないけど、同着だった、と。でも、競馬会としては、ダービーで同着を出すわけにはいかない。だから、うちのおやじさん(北野)は、これは馬主の格で負けたんだ、と言っていました。それで一念発起して、牧場を持って大オーナーになってやる、と考えたんです」
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