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「見てください。鳥肌です、鳥肌」ホークス“日本一”を支えた37歳・秋山幸二、寡黙で鮮烈なキャプテンシー《証言:浜名千広、柴原洋》

2025/01/18
37歳だった1999年シーズンに秋山が見せた姿勢とは
ホークスが福岡の地にやって来て、11年。Bクラスが定位置だった球団が変わった。チームを牽引したのは背番号1の寡黙なキャプテン。勝利の味を知る37歳のベテラン外野手はいかにして若鷹軍団を初の日本一に導いたのか――。(原題:[福岡ダイエーホークス初の日本一]1999年の秋山幸二は背中で語る)

 バッターボックスの秋山幸二が両手で顔を押さえたまま、よろめきながら崩れ落ちた。怪物ルーキーの速球がすっぽ抜けて直撃。左頬骨を砕いたのだ。

 1999年9月8日、福岡ドーム。首位に立つダイエーがゲーム差1.5で迫り来る2位・西武を本拠地に迎えていた。同点の2回裏。満員の大観衆から悲鳴のような声が漏れる中、マウンドでは18歳の松坂大輔が帽子を取って呆然と立ち尽くしていた。37歳の大ベテランは担架に乗せられ退場。ほどなくして救急車で病院へと運ばれた。この年に選手会長を務め、二塁のレギュラーだった浜名千広はその壮絶な死球を一塁ベンチで見ていた。秋山の容態が心配だったのは当然だが、チーム全体のことも考えなくてはならない立場だ。

「どのくらい戦列から離れてしまうのだろう。秋山さんにいてもらわないと、どうしたら……というのが頭をよぎりました」

 ダイエーが優勝するかもしれない。当時の球界でそれは大珍事だった。万年Bクラス球団。親会社が変わり大阪から福岡へ移っても、立派なドームが完成しても、'95年からは「世界の王」王貞治が監督になってもチームはなかなか変われなかった。

 秋山は移籍6年目だったこの'99年にキャプテンに就任した。かつては常勝軍団の西武で6度の日本一、8度のリーグ優勝に貢献している。そのV体験が美酒の味など知らない選手ばかりのダイエーに必要なのは言うまでもなかった。ただ、浜名は言う。

「秋山さんと僕でこうやってチームを引っ張ろうみたいな話は一度もしてません。秋山さん自身もその肩書きで何かが変わったわけでもない。もともと言葉は少ない人。僕もそうだし、みんなも秋山さんの背中をずっと見ていました」

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photograph by Kazuaki Nishiyama

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