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“闘将”柱谷哲二が考える「代表キャプテンとはどうあるべきか」…オフトジャパンのためにラモスへ仕掛けた「奇襲」とは?

2024/02/17
現在は岩手・花巻東高サッカー部のテクニカルアドバイザーを務める柱谷
日本代表が悲願のW杯初出場を目前で逃した1993年。あの時、「闘将」は度胸と工夫で個性派集団を束ねた。キャプテンのあるべき姿を追い求めて幾星霜――。現在、その情熱を捧げる岩手の地で語った主将論とは。

 想像していた銀世界とは違った。

 東京から北へおよそ500km。野球界の革命児、大谷翔平を育んだ大地は、真冬だというのに、雪ひとつなかった。

 よもや、かの人の炎によって、ことごとく溶かされてしまったわけではあるまい。ただ、口を開くたびに熱を帯びる様はもうすぐ還暦を迎えるいまも『闘将』と呼ばれた現役時代のままだった。

「確かに闘うということは自分のテーマではあったけど……。まぁ、こういう顔で、大声を出すと怖い顔になるからね。それで常に怒っているようなイメージになったんじゃないかな」

 柱谷哲二はそう言って首を傾げつつも、自分なりに落としどころを見つけていた。はるか遠い昔の記憶を――。

大役を任され考えた「キャプテンとはどうあるべきか」。

 テクニカルアドバイザーとして花巻東高と深く関わるようになったのは2018年だから、もう6年が経つ。きっかけは同じ国士舘大の出身でもある野球部の佐々木洋監督だった。ちょうどサッカー部の監督、指導者を探していたという。当初は断ったものの、最終的にはその熱意にほだされ、承諾するに至った。

 仕事は現場で直接指導に当たるだけではない。有望な人材のスカウトから環境整備に至るまで多岐にわたる。絶えずアンテナを張りめぐらせ、根回しや交渉事を少しもいとわぬ姿勢はあの頃と変わらない。選手としての最盛期にキャプテンを担ったオフト・ジャパンの時代である。

「ちょうどJリーグの開幕を翌年に控えた頃。プロとして、より良い環境にしていく必要があると。僕らにはある種の使命感があった。初代チェアマンの川淵(三郎)さんから『何かあったら、必ず言えよ』と。その一言をもらって、黙っていちゃいけない、自分たちの手で変えていくんだと」

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photograph by Nanae Suzuki
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