#848
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「浅田の感極まる顔をみて、佐藤も泣いた」浅田真央、天才少女の“夢の結実”【ソチ五輪、涙に隠された秘話】

ソチ五輪のフリープログラム、ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」を演じる浅田真央
フィギュアスケートにすべてを捧げてきた天才スケーターが、集大成と決めたオリンピックの舞台で、輝きを放った。SP16位から一夜、フリーでは最高難度のプログラムを滑り抜いた。失意の彼女を立ち直らせたのは、信頼する師の“言葉”だった。(初出:Number848号[天才少女、夢の結実]浅田真央「恩返しのスマイルを」)

 2月20日、女子フリーの夜、満場の歓声のなか浅田真央は、天井を見上げる演技終了のポーズのまま、顔をくしゃくしゃにしていた。笑おうとして2度こらえた涙が目から溢れた。

「最後の最後まで思いを込めて演技しようと考えていたので、最後のスパイラルは『まだ』と思っていました。終わった瞬間は『やった』。心配してくれた皆さんに笑顔を見せようと思ったのに、つい泣いちゃいました」

 前日のショートでは3つの全ジャンプでミスして16位。「身体が全然動きませんでした。理由は分かりません」とうなだれた。そこから一夜、フリーはトリプルアクセルを含む8本の3回転を着氷し、自身が初めて挑んだ最高難度のプログラムを見事に滑り抜いた。自己ベストの142・71点で10人をごぼう抜きしての総合6位。フィギュアとしては前代未聞の巻き返しだった。

「昨日と今日では、天と地の差です」

 目標としていたメダルが絶望的となる中、フリーの挑戦を支えた力の源は何だったのか。師である佐藤信夫と4年がかりで歩んだ道に、その答えはあった。

1990年9月25日、愛知県生まれ。シニアデビューの’05年にGPファイナルで優勝。以降、幾多のライバルたちと競い合ってきた。163cm Shinya Mano/JMPA
1990年9月25日、愛知県生まれ。シニアデビューの’05年にGPファイナルで優勝。以降、幾多のライバルたちと競い合ってきた。163cm Shinya Mano/JMPA

 

 時は4年前――。バンクーバー五輪のフリー演技後、浅田は涙を流していた。

「色々考えたりして長かったんですけど……。あっという間に終わってしまいました。悔しいです」

 当時は自分の心情を語る語彙もなければ、自己分析も出来なかった。銀メダル獲得の快挙にも、喜びはなかった。

 最大の原因は、ジャンプの不振だった。「結果的には跳べていても、フォームは崩れている。ゼロからやりなおしたい」と浅田は考えた。母・匡子さんは、基礎の指導に定評がある佐藤が適任と考え指導を依頼。「すべて崩してから構築していくには3年はかかる。それでもいいのか」という佐藤が提示した条件のもと、ソチへの4年がスタートした。

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photograph by Asami Enomoto/JMPA

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