――坂口征二さんといえば、新日本黎明期からリング内外のナンバー2としてトップの猪木さんを支え、平成元年以降は社長、会長を歴任。新日本の歴史のほぼすべてを見守ってきたわけですが、オカダ選手は坂口さんとの対談は今回が初めてですか?
オカダ 取材という意味では初めてですね。試合会場ではよく坂口さんに「がんばれよ」って声をかけていただくんですけど、新日本プロレスの歴史などについてお話しさせていただいたことはなかったので、今日はいろいろ聞けるのが楽しみです。
坂口 こうしてあらたまって話すとお互い緊張するよな(笑)。新日本は今年50周年だけど、いろんなことがありましたよ。最初の十数年は自分も選手としてリングに上がって、平成元年(1989年)に社長になって翌年現役は退いてね。東京ドーム大会もG1クライマックスも三十何回、ほとんどの試合を観てきたね。山あり谷ありだったけど、選手社員みんなの頑張りでいい形で50周年を迎えられて本当に良かったと思う。いつの間にか俺が一番古くなってよ(笑)。
オカダ 坂口さんより前から新日本にいる方ってフロントも含めていないですよね。
坂口 藤波(辰爾)なんかは最初からいたけど、みんな辞めちゃってるからな。俺は創立2年目からいるから49年どっぷり浸かってるんだけど、猪木さんが新日本を旗揚げした時はまだ日プロ(日本プロレス)にいたから。最初は“敵”だったんだよ(笑)。
故・力道山が設立した日本プロレスは'70年代初頭、ジャイアント馬場とアントニオ猪木の“BI砲”人気で第二の黄金期を迎えていた。しかし幹部の放漫経営により莫大な収益を上げながら会社の利益は上がらないという有様で、団体内に不満が充満。そこで'71年12月、猪木が会社改革に立ち上がり幹部追放に動き出すが、これは一部選手のリークもあり失敗。逆に猪木は「会社乗っ取りを謀った」として日プロを追放されてしまう。
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