20年前、なぜあれだけ多くの人々が日本代表に夢中だったのか。スタンドで、街中で、メディアを通して、あのワールドカップを、そしてサッカーを盛り上げるために奔走した人の声に耳を傾けた。
見渡す限りの青、尽きることのない歓声。
2002年6月14日、日本代表が決勝トーナメント進出を決めた大阪の繁華街・道頓堀は、狂乱のお祭り騒ぎになった。
アディダス ジャパンのワールドカップ・プロジェクトメンバーだった白川創一が、興奮の面持ちでその日を振り返る。
「“ここは日本か?”と疑うような光景が広がっていて、もう最高でした。ぼくはミランがセリエAで優勝した日のミラノの騒ぎを体験したことがありますが、あの日の大阪にはそれに負けない熱があったんです」
日本中が青く染まった日韓大会。そこにはワールドカップを盛り上げようと、必死に汗をかいた人々の奮闘記があった。
青の物語は、日本が初出場を果たした'98年フランス大会に始まる。この大会、開催国の大一番を迎えたスタジアムに突如、50m四方の巨大なユニフォーム、“ジャイアントジャージ”が出現した。
「俺たちも、これがやりたい!」
沸騰するスタジアムの中に、強い決意とともに青いジャージを見つめる男がいた。横浜マリノスのサポーターリーダーを務める松下敬一。Jクラブのサポーターグループが連帯して生まれた、日本代表の応援組織、通称“J連”のトップでもある。
帰国後、松下はアディダス ジャパン初代社長でフランス人のクリストフ・ベズと会い、「日本もジャイアントジャージを」と意気投合する。日本代表のオフィシャルサプライヤーになる同社としては、日韓大会への熱を高めることが急務となっていた。
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photograph by Naoya Sanuki