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<五輪での挫折、再生までの物語> 増田明美 「私が走る歓びを知った日」

2014/01/23
マラソン中継で、知られざるエピソードを紹介する解説者の言葉は、
ランナーに対しての愛にあふれている。
日本中の期待を一身に背負い、ロス五輪で棄権という挫折を
味わったかつてのトップランナーが、再びランニングの魅力を知るまで――。

本日発売のNumber Do 『私が今日も走る理由。』より、
増田明美さんのドキュメンタリーを公開します。

 昨年12月に宮城県仙台市で開催された『全日本実業団対抗女子駅伝』で、こんなシーンがあった。2区の約2.6km地点で、デンソーの小泉直子が1区で先頭だったヤマダ電機の須澤麻希をとらえた。小泉が抜き去った瞬間、第一中継車でレースを解説していた増田明美がふれたのは須澤の走りだった。

「須澤さんは去年のレースで1区を走って26位でした。抜かれはしましたが、今年は自分の走りがしっかりできていると思います」

 なぜ、彼女はトップに立った選手ではなく、チームの順位を落とした選手に思いを寄せたのだろうか。

 そのまなざしの背景には、女子マラソンの黎明期を支えた天才ランナーの栄光と挫折、そして再生のドラマがある。

「あのころは大きな渦に巻き込まれて、何が起こってるのかよくわからなかった」

 増田はそう口を開いてから、過去の自分と向き合い始めた。あの“渦”の正体はいったい何だったのか、なぜ、あんな形で“渦”に巻き込まれてしまったのか。当時の状況や内面の移ろいを振り返るたび、その真実が明らかになっていく。

ロード、トラックの記録を更新し続けた天才女子高生。

 彼女の名が全国に知れ渡ったのは、千葉・成田高校3年生のときである。

増田明美 Akemi Masuda
1964年1月1日、千葉県生まれ。成田高在学中に、中長距離種目で次々と日本記録を樹立。'82年2月にマラソンの日本最高記録をマーク。メダル候補として出場した'84年ロス五輪では途中棄権。'92年に現役引退後は、スポーツジャーナリストや解説者として活躍している。

 瀧田詔生監督に才能を見いだされ、トラックの3000、5000、1万m、ロードの10、20、30kmと、すべての中長距離種目で日本最高記録を更新したのだ。身長150cmのスーパー女子高生は、《彗星のように現れた天才少女》としてメディアに大きくとりあげられた。

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photograph by Takashi Shimizu

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