博多の人・王貞治BACK NUMBER
「先祖の墓は、どこにあるんだ?」王貞治が謎の質問をした不振の開幕投手の“強気伝説”とは?「危険球ルールを変えたのは、俺だから」
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喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byKoji Asakura
posted2026/09/29 11:07
開幕戦で好投したが、その後成績が上がらない西村龍次に王は驚きの声をかける。西村は期待されれば絶対に応えたいという強気の男だった
1999年オフ、工藤公康の巨人へのFA移籍が決まった。ただ、99年は若田部健一、永井智浩、星野順治が10勝を挙げるなど、新たなエース候補誕生の予兆が見えていた。工藤がいなくなっても「開幕投手」を託せる中堅、若手が台頭しつつあった。
それでも王は、西村の“神通力”を信じていた。
2000年の高知キャンプが始まった直後、西村に2年連続の開幕を託すことを、早々と通達していたのだ。
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「何もなかったら、そのまま行ってくれ。そのつもりでやってくれ」
99年の後半戦に投げていない西村を、また開幕に使おうというのだ。
「優勝確率100%」への信頼
ヤクルト時代、そして1999年を合わせれば、西村が3度の開幕投手を務めた年に、チームは3度のリーグVと2度の日本一。その「V確率100%」という勝負強さは何物にも代えがたい。ある意味で実力を超えた、理屈では証明できないような“何か”があるのだ。
縁起がいいから、ってこと? と、失礼は承知で、西村にそう問うてみた。
「そうそうそう。若田部がいた、田之上(慶三郎)もいたし、あと、永井とか星野もいたんだけど、投げてもいない俺」
笑いながら振り返る西村だが、右肘の状態や、年間通してのコンディションの維持という観点で考えれば、99年の工藤のように、自ら辞退した方がよかったのかもしれない。
しかし、西村のプライドと使命感が、その弱気な選択肢を押しのけてしまう。
「コンディション的には、もう全然よくなかったよ。99年のときは、その前の年の流れもあって、まあまあできるか、というのはあったけど、2000年、その後の2001年ももう無理です、って感じよ。それはあった」

