プロ野球PRESSBACK NUMBER
1979年「実は僕も江川卓のトレード候補だった」“空白の一日”を巨人の左腕エースはどう見ていたのか「江川本人が気づくわけないんだから」
text by

元永知宏Tomohiro Motonaga
photograph byKYODO
posted2026/07/31 11:01
球界のみならず、日本中を揺るがした江川卓の「空白の一日」の発表。一連の騒動、そして江川という男を当事者の巨人のメンバーはどう見ていたのか?
「空白の一日」事件
火種は数年前からくすぶっていた。
1973(昭和48)年秋のドラフト会議で阪急ブレーブスから1位指名を受けた作新学院(栃木)のエース・江川卓はそれを拒否して法政大学に進学。大学卒業前の1977年にはクラウンライターライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)から1位指名された。しかし、江川は契約を結ぶことなく、作新学院の職員としてアメリカ留学することを選んだ。
ライオンズとの交渉期限が切れた翌日の1978年11月21日、すなわちドラフト会議の前日に、江川は読売ジャイアンツと電撃契約を結んだ。これがプロ野球史に残る「空白の一日」だ。
ADVERTISEMENT
高校時代に“怪物”の異名を取った江川を巨人がずっと狙っていたことは間違いない。しかし、高校・大学の2度とも指名権を得られなかったために、強硬手段に出たのだ。
1978年8月に改定された条項に沿っていると球団は主張したが、この一日は事務上の混乱を避けるために設定されたもので、「抜け穴」を巧妙に利用した巨人も江川サイドも他球団やファンから非難された。
セ・リーグは江川の選手登録申請を却下したが、それでも「ドラフト破り」を決行した巨人は引き下がらない。翌日のドラフト会議をボイコットし、11球団のみで行われることになった。江川の交渉権を獲得したのは、巨人のライバル球団である阪神タイガースだった。
12月22日、金子鋭日本プロ野球コミッショナーが「阪神が江川と速やかに入団交渉を行い、巨人、阪神はトレードの交渉を持つように」との要望を出した。期限は1月31日、キャンプイン前日だった。
江川卓という男
名門・作新学院のエースとしてさまざまな伝説を残してきた江川は、1973年の春と夏に甲子園出場を果たした。計6試合で4勝2敗、59回3分の1イニングを投げて92奪三振、防御率0.46という圧倒的な成績を残している。「バットにボールが当たっただけで拍手が起こった」と言われるピッチャーは江川以外にはいない。
チームの最高成績は春のベスト4で、日本一にはなれなかったものの、“球界の盟主”を自認する巨人はこの甲子園のスターを欲しがった。
1965年からV9(9年連続リーグ優勝、9年連続日本一)を達成した巨人だが、1974年のシーズンオフに長嶋茂雄が現役を引退。ともに戦ったV9戦士も次々にユニフォームを脱いだ。

