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1979年「実は僕も江川卓のトレード候補だった」“空白の一日”を巨人の左腕エースはどう見ていたのか「江川本人が気づくわけないんだから」
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元永知宏Tomohiro Motonaga
photograph byKYODO
posted2026/07/31 11:01
球界のみならず、日本中を揺るがした江川卓の「空白の一日」の発表。一連の騒動、そして江川という男を当事者の巨人のメンバーはどう見ていたのか?
1975年、新監督に就任した長嶋の采配に注目が集まったが、開幕から苦戦が続き、球団として初めての最下位に沈んだ。V9時代のエース・堀内恒夫は前年に19勝を挙げていたものの、この年は10勝(18敗)。1978年まで二けた勝利は続けたが、全盛時ほどの力は見せられなくなっていた。球団を立て直すエースが欲しい巨人は、“怪物”に食指を動かしたのだ。
堀内以外にエースと期待されるピッチャーがいなかったわけではない。
身長180センチを超える大型サウスポーの新浦壽夫はその筆頭だった。V9最後の1973年に3勝、翌年に7勝6敗1セーブ、防御率2.63という成績を残した。1975年は2勝だったが、翌年からは11勝、11勝、15勝を挙げている。
新浦壽夫という男
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1951年生まれの新浦も、プロ野球の争奪戦に翻弄されたひとりだ。
1968年、静岡商業のエースとして夏の甲子園出場。決勝で興国(大阪)に敗れたものの、そのピッチングが注目を集めた。新浦は当時をこう回想する。
「僕たちの頃は、甲子園でバンバン三振を取るピッチャーは少なかった。1回戦の伊香(滋賀)戦で15三振を奪って注目されました。でも、監督からは『ひとりで野球をやってるんじゃない!』と怒られましたよ」
2回戦で浜田(島根)、3回戦で高松商業(香川)、準々決勝で秋田市立(秋田)、準決勝で倉敷工業(岡山)を撃破した。6試合を戦って、3完封、防御率0.34という成績を残した新浦もまた怪物だった。
「全員で守って、全員で点を取るという野球でした。そんななかで僕が、三振を取れるピッチャーだということで注目されたんですね」
ドラフト会議は1965年に導入されていたが、韓国籍の新浦はドラフトの対象ではなかった。自由競争となるため、大リーグも含めて多くの球団が獲得に動いたと言われている。

