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アントニオ猪木が愛した熊本“伝説のビアホール”「猪木さんは優しかった」91歳マスターの追憶…死去の前に“2度の電話”「ああ、間違っちゃった」
text by

原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2026/02/20 11:03
アントニオ猪木のブロンズ像を手に微笑む熊本市「ビア・ホールMAN」の村田善則マスター(91歳)
「新日本プロレスの企画宣伝部に行って製作の話を進めた。馬鹿だから、富山で型を取って大量生産の準備にかかった。でも、新間(寿)さんに1年待ってと言われた。梶原一騎やタイガーマスクの件があって、結局3年くらい待たされたかな。猪木さんはそんなことは知らなかったようで、『すぐ弟を行かせるから』ということになった。マモル企画というところが広告を出してくれたんです。でも、売れるタイミングを逃したという思いでした」
ケンカに明け暮れた「めちゃくちゃな人生」
村田は長崎県北松浦郡(現・松浦市)の生まれだが、3歳の時、長崎市内に出てきて、長崎大学教育学部附属小学校に通っていた。5年生の時、疎開で田舎に移った時、転校先でいじめにあった。
「頭はよかったんです。先生が『村田君』って指してくれたので、すらすらと答えた。それが面白くなかったようで、先生がいなくなると級友から殴られた。悔しい思いをした。男は強くなくちゃいかん」
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村田は長崎から佐賀の伊万里高校に通った。1年生の時にボクシングを始めた。よくケンカをした。いつしか村田は番長になっていた。
大学は「番長たちが集まる」拓殖大学を選んだ。木村政彦の出身大学としても知られる武道の名門だ。
「大学には2年間いてボクシングをやってたが、教室には2回しか行かなかった。相撲、ボクシング、空手、柔道、重量挙げの寮があって、空手の道場が1階にあって、そこで空手もやった。東京で拓大の紋付で雪駄はいていたら、誰も寄りつかん。めちゃくちゃな人生だった」
村田は強くなっていた。長崎に帰ってきた村田はケンカに明け暮れた。
「21の時、キャバレーはヤクザばかりでそこらじゅうでケンカしてね」
街では組の若い者を次々に殴り倒した。「1年くらい身を隠すようにと言われた」こともあったという。
「昔はヤクザになりたかった。暴力団じゃないよ。清水の次郎長のようなね。人のために尽くす義理や人情のあるヤクザにね。静岡まで行って手を合わせました。(次郎長の)銅像あるでしょう。大政、小政とか」
そんな村田がビールと出会ったのは小学6年生の時だった。父親が戦争でシンガポールに行って、“マレーの虎”と言われた山下奉文将軍に仕えていたが、終戦で1945年に帰ってきた。軍刀を持った父、久治さんの写真が残っているという。久治さんはタバコやビールを自分で作っていた。村田は小学生なのにタバコを巻き、ビールも飲まされたという。もちろん、苦いビールが子供の口に合うはずはない。


