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箱根駅伝の“奇跡”「日本学連選抜」の6位激走とは何だったのか?「関東の大学には行けないよね…」22年前、“夢破れた学生たち”が箱根路を走るまで
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小堀隆司Takashi Kohori
photograph byNumber Web
posted2026/01/30 11:30
2004年の第80回箱根駅伝で日本学連選抜チームのキャプテンを務めた中川智博
「大八木監督の倍は怖い(笑)」関西の名伯楽
なぜ、京産大の伊東監督だったかと言えば、その当時、地方の大学の中で実力が頭一つ抜けていたからだ。通称「伊勢路」と言われる全日本大学駅伝では、並みいる関東の有力校を押しのけて、1986年の17回大会で初優勝を飾っている。その後も準優勝1回、5位以内に8度入るなど、大学駅伝界で確かな地歩を築いていた。全国的な知名度は低いが、伊東監督の指導力には定評があったのだ。
中川がこう振り返る。
「基本、やった練習は裏切らないという指導だったので、練習量はすごかったです。当時、20km走や30km走は毎週のようにやってましたね。レースが終わった翌朝も当たり前のように走りますし、たとえ良い成績を挙げても浮かれるヒマがなかった。よく駒澤大の大八木(弘明・現総監督)さんが怖いって話を聞きましたけど、その倍くらいは怖かったと思います(笑)」
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そんな厳しい指導によって、中川も大学でグングンと競技力を伸ばした。3年生になると専門の3000m障害で日本インカレ2位となり、全日本大学駅伝の2区では関東のエース相手にも怯まず区間4位に入っている。極めつきは4年時の関西インカレで、5000m、10000m、ハーフマラソン、3000m障害の4種目に出場すると、そのすべてで優勝。同大会で31年振りの快挙となる4冠を達成した。
当然ながら、今回のチームでもエースとしての活躍が期待されていたのだろう。実際に監督からはこう声をかけられていたという
「おそらくですけど、私は唯一、選考を除外されたんですよ。あの関西インカレで雨の中、立て続けにレースを走って、そこで一度体力を使い果たしてしまった。オーバートレーニング気味になって、そこから調子を崩してしまったんです。練習も積めなくなって、自分的には大スランプですよね。それで監督からは『選考のことは考えずに箱根にはちゃんと合わせろ』と。選抜チームのキャプテンも早々に任されたのかな。でも、それがある意味ではプレッシャーでもありました」
北は北海道から、南は鹿児島まで…30人の強化選手
雲を掴むような話がようやく形になってきたのは、日が長くなった夏の日のことである。8月に初めて、広島のクロカンパークで選抜チームの強化合宿が行われた。5000m、10000m、ハーフマラソンでそれぞれ基準となるタイムが設けられ、それをクリアしていることが選ばれるための条件だった。
約半数が京産大と立命館大の選手だったが、北は北海道から、南は鹿児島まで、全国の地方大学から総勢30名ほどの強化選手がかき集められたのだ。
その中には、当時岡山大の3年生だった末吉勇の姿もあった。

