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プロ野球PRESSBACK NUMBER
「岩瀬仁紀を一人にしたら危ない…」中日・落合博満監督が苦しんだ“唯一のシーズン”北京五輪で5人離脱…岩瀬から森繁和に憔悴の電話「早く帰りたいです」
text by

森繁和Shigekazu Mori
photograph byJIJI PRESS
posted2025/11/28 11:01
落合ドラゴンズ時代、最も苦しんだ2008年シーズンのウラ話
北京五輪の“誤算”…5人が離脱
8月には北京オリンピックで主力選手を五人も持っていかれたのが痛かった。競技自体は10日間程度だったが、月初めには代表合宿があり、その後は壮行試合もあったため一ケ月近くチームを離れた。仕方のないことではあるけれど、優勝を争う巨人からは上原浩治と阿部の二人、阪神からは藤川球児、矢野燿大、新井貴浩の三人、対して中日は憲伸、岩瀬、森野、荒木に加えて台湾代表でチェンまで抜けたのだから戦力的にガクッと落ちた。
当時の代表監督は星野さん。各球団のエース級ピッチャーをたくさん預かっていたから神経を使うことも多かったと思うが、やっぱり自分が中日監督時代に獲って、使って、育てたピッチャーだった二人は他のピッチャーよりも扱いやすいということもあったのだろう。憲伸が最多の5試合に登板して岩瀬もそれに次ぐ4試合に投げた。特に岩瀬は上原、藤川もいたこともあって、チームで担っていた抑えとは違う役割を与えられ、調整や気持ちの切り替えなどで難しいところもあった思う。通算四回三分の二を投げて被安打10の10失点(自責点6)、防御率11・57という本調子とはほど遠い成績に終わっていた。オリンピック中に「早く帰りたいです」と北京から私のところに電話をかけてくるくらい精神的にも参っているようだった。
ピッチャーを見ているコーチとしては、憲伸の代役候補はこいつ、岩瀬の代役候補はこいつとか、誰か一人に代わりを期待して我慢して使うということは考えなかった。一人の穴は三、四人のピッチャーで、それも右、左とか、対戦相手を見ながら色々と使っていくしかないと考えていた。そんななかで2年目だった浅尾が台頭した。五輪期間中は抑えをやったり、岩瀬が戻ってきてからはセットアッパーをやったり、44試合に投げて3勝1セーブ12ホールド、防御率1・79と飛躍のきっかけを掴む活躍を見せてくれた。ベテランの昌も通算200勝を達成するなど、月間4勝を挙げて最年長月間MVPを受賞するほどの活躍をしてくれた。それでも8月は9勝10敗と二ケ月連続の負け越しとなった。

