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「レシーブした選手が腕を骨折」「鉛の靴で登下校」全日本バレーの元エースが明かす“伝説の中高生時代”…佐伯美香が駆け上ったスターダムの舞台裏
posted2025/09/12 11:02
1996年のアトランタ五輪に出場した佐伯美香
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NumberWeb編集部Sports Graphic Number Web
photograph by
JIJI PRESS
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1995年11月、全国のバレーボール競技者やファンを虜にした選手が「バレーボール・ワールドカップ95」のコートに突如現れた。当時24歳の佐伯美香だ。
佐伯は小学6年からバレーボールを始め、松山市立南第二中学校に入学すると、同校は四国大会に進出する強豪となっていく。
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「中学生くらいから先生や先輩も厳しく、本格的に取り組むようになりましたね。当時は週2回の夜練習も欠かさず、重りが入った鉛のシューズを履いて登下校していました」
そんな努力の甲斐あって、佐伯はやがて県外でも注目を集めるようになる。
「当時、『佐伯のスパイクをレシーブした選手が腕を骨折した!』なんていう冗談も言われていたんですよ(笑)」
「風呂に何分かかっとんじゃ」
京都の強豪校・成安女子高(現・京都産業大学附属高)へ進学した佐伯を待っていたのは、さらに厳しい環境だった。
「監督が言ったことは絶対、という厳しさはもちろんありました。例えば、学校で合宿しているときに夜は近くの銭湯に行くんですけど、帰ってきたら先生が『風呂に何分かかっとんじゃ。もう一回行って30分で帰ってこい』と」
ユニチカに入社後も、佐伯の過酷な日々は続いた。1日8時間の練習、月に1回あるかないかの半日休み。給料の半分は高額な栄養補助食品に費やした。
努力の末、日本代表に選出された佐伯は、ワールドカップの舞台で一躍スターダムへ駆け上がった。
「不思議な感覚でしたね。自分自身、やっていることは何も変わらないのに。テレビ放映されたことで周囲の状況が一変しました。ファンレターの中に多かったのは婚姻届です」
そんななか、アトランタ五輪を終えた佐伯はビーチバレー転向を突如宣言し、周囲を驚かせることになる――。驚きの決断のウラ側は、本編で詳しく描かれている。
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この文章の本編は、以下のリンクからお読みいただけます。
