- #1
- #2
甲子園の風BACK NUMBER
「街は過疎化」「ファンも落ち込んでしまって」甲子園に20年行けていない“黒潮打線”銚子商高はそれでも「私学とは違うやり方で甲子園目指す」
text by

内田勝治Katsuharu Uchida
photograph byKatsuharu Uchida
posted2025/08/22 11:03
1974年の銚子商高全国制覇の記念碑と、OBの澤田洋一・現監督。公立校の現状は厳しいが、名門復活への意気込みを語った
澤田自身、幼少から地元の強豪である銚子商の凄さを肌で感じながら育ってきた。91年夏の千葉大会決勝。我孫子高に0対2で負けた時は「銚子商よりも強い高校があるんだ」と小学生ながらにショックを受けた。中3時の95年夏には、その年の選抜で準優勝を果たした地元の英雄を一目見ようと、千葉大会決勝が行われた千葉マリンスタジアム(現ZOZOマリンスタジアム)まで出向いた。
千葉マリン全体が銚子商を応援しているようだった
「拓大紅陵さんを相手に澤井良輔さん(ロッテ)が打って同点に追いついて、逆転で勝った試合なんですけど、球場全体から『澤井』コールが凄くて、球場全体が銚子商の応援に感じるぐらいでした」
日本一に輝いた1974年以来となる春夏連続出場に、銚子の街は沸いた。そして1996年春、澤田は憧れ続けた「CHOSHO」の門を叩いた。
ADVERTISEMENT
「とにかく甲子園に行くのが当たり前だという中で育てられました。甲子園で準優勝したんだから、今度は全国制覇だと期待をかけられました。そういう雰囲気、環境が整っていましたね。1球に関しての勝負、執念というものは指導者だけでなく、上級生からも厳しくしつけられましたので、下級生の頃は常に緊張感がありました」
澤田は捕手としてチームを引っ張り、2年秋の千葉大会で準優勝も、関東大会では水戸商(茨城)に初戦敗退。3年夏の東千葉大会では準決勝で八千代松陰の多田野数人(インディアンス、日本ハムなど)に完封負けを喫し、甲子園の土を踏むことはできなかった。
甲子園に行けるものだと思い込んでいたが
「3年夏の千葉は東と西で別れていましたし、自分たちもこれだけ練習をやったのだから甲子園にいけるものだと思っていました。もちろん悔しかったですけど、周りの方たちが凄く沈んでいた印象があります」
その後、進学した国際武道大監督の岩井美樹も銚子商OB。1973年夏の甲子園では「6番一塁」で、作新学院(栃木)の江川卓に勝利した経歴を持つ。「野球に対する姿勢や取り組みは改めて大学で教えられました」と、高校からの7年間で銚子商イズムをしっかりと体に染みこませた。

