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「あっ、800万円置いたままだ…」“車上荒らし”に遭ってもナゼ無事だった? 25歳で原辰徳より稼いだ賞金王・神山雄一郎の競輪に魅せられた40年
text by

杉園昌之Masayuki Sugizono
photograph byJKA
posted2025/08/25 11:01
1993年8月、地元・宇都宮競輪場で開催されたオールスター競輪で優勝した神山雄一郎(当時25歳)。デビューから6年目で初めて特別競輪(GI)を制した
生涯獲得賞金は歴代最高の29億3830万円を稼ぎ出したものの、今も昔も金には無頓着。派手な生活を送るようなタイプではなく、自らのトレーニング、体作りなどにつぎ込むことが多かった。家族との生活もあれば、賞金額の半分は税金で徴収される。すべてが懐に入ったわけではない。
「もう大して残っていないです。生活にも、それなりのお金がかかりますから」
初めて賞金王を獲得したのは1993年。デビューから6年目で特別競輪(GI)を制したのも、このシーズンである。同年9月に地元の宇都宮競輪場で開催されたオールスター競輪は、36年に及ぶキャリアのなかでも最も印象に残るレース。1着決定の場内アナウンスが流れると、大きな歓声が上がった。
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会場には『燃えろ、神山雄一郎、悲願の制覇』の横断幕が掲げられるなど、期待も大きかったのだろう。レース後、右手で涙を拭いながら興奮冷めやらぬバンクを回る姿は、ファンの感動を誘った。優勝者インタビューでアナウンサーにマイクを向けられて、ほとんど受け答えできずに大号泣したのは語り草になっている。
「当時の映像は恥ずかしくて、見たくないのですが、あの勝利は一番うれしかった。特別競輪でずっと勝ちたいと思っていたので、懸ける気持ちが強かったんです。あそこで勝つために走ってきましたから」
巨人・原辰徳よりも稼ぐ25歳
今から32年前、25歳の賞金王が年間に稼ぎ出した金額は約1億5600万円。日本のプロスポーツ界でもトップクラスの報酬だ。プロ野球の原辰徳(当時35歳)が年俸1億2500万円(推定)で契約更改し、巨人で初めて1億円プレーヤーになった日本人選手として話題になった時期である。それ以上の対価を得ていた若い競輪選手の心境は、どのようなものだったのか。
「正直、他競技のプロスポーツ選手と比較はしなかったですね。プロ野球は世間一般で注目度の高いスポーツですし、僕らは知る人ぞ知る世界でお金を稼いでいると思っていましたから。僕自身、積み上がっていく金額の数字は気にしていなかったので」
賞金額が明確に決まっているため、レースのグレード、順位は選手の報酬にすべて直結する。当然、野球、サッカーのような年俸査定はない。それこそ、レースの1着と2着では大きく違ってくる。GIで約2000万円から4000万円ほど変わり、競輪最高峰の舞台になると約1億円近い差が生まれる。神山は1997年に史上初の年間賞金2億円を達成し、GIレースでは歴代最多の16勝。それでも、賞金額が最も高いKEIRINグランプリ(※2024年の優勝賞金は1億4000万円)だけは縁がなかった。1995年から4年連続で準優勝。2着の痛みを最も知る男かもしれない。
「みなさんが思っているほど、『目の前で大金を逃してしまった』とショックを受けることはなかったです。もちろん、KEIRINグランプリで優勝したい思いもありましたし、勝負に負ければ、悔しいです。ただ、競輪は1着になれば、すべて満足できるのかと言われれば、そうではありません。僕が大事にしていたのは競走内容。良いレースをしたかどうかで、選手の評価も変わります。負けの中にも価値があります」




