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「もうあんな試合はしない」休部から16年ぶりに復活した日産自動車野球部で、レガシーを再構築する指揮官・伊藤祐樹の決意
posted2025/08/28 10:02
1995年に入社。2009年の引退まで日産ひと筋に活躍し続け「ミスター日産」と呼ばれる伊藤監督
text by

和田秀太郎Shutaro Wada
photograph by
Yuki Suenaga
リーマンショックによる業績悪化に伴うコスト削減のあおりを受け、2009年に休部していた日産自動車硬式野球部が、16年の時を経て、今年1月に復活した。
再建を託されたのはチームの元主将で、かつて「ミスター日産」と呼ばれた伊藤祐樹監督。選手22人のうち21人を大卒1年目の選手でそろえ、都市対抗大会出場を懸けて初めて挑んだ7月の西関東予選。
おぼろげながらも見えた若きチームの可能性と、浮き彫りになったもろさ──。大会期間中には会社に激震が走った知らせもあった。それでも走り抜いた初めての夏を指揮官が振り返った。
第1代表決定トーナメント準決勝で相対したのは、同大会44度の出場回数を誇る名門東芝。試合は4回終了時点で2-6と苦戦を強いられていた。
だが5回の攻撃で、2死からボテボテのゴロを打った1番宮川怜が全力疾走で相手二塁手の失策を誘った。その後内野安打が続き、満塁で4番石飛智洋が打席に立つ。
石飛は真ん中付近に甘く入ったカットボールを強振し、打球は無人の右翼席へ。ドン──その着弾音はチームの復活を告げるかのように球場全体に響き渡った。
起死回生の満塁本塁打に一塁側スタンドの日産応援団は大盛り上がり。応援歌『世界の恋人』の大合唱が巻き起こった。伊藤はその瞬間をよく覚えている。「普段はベンチの中にいるので直接大きな音で聴こえることはないけど、球場の雰囲気を含めて感じるものは全然違いました。あんなに人がいる予選は見たことがない」
これぞ社会人野球という光景だった。平日のナイター。業務を調整して応援に駆けつけた従業員たちは、戦うナインに自らを投影し、仕事への活力に変えたことだろう。打った石飛も「すごく多くの方に応援されていると感じた。そのすごい光景を目に焼き付けた」と語った。
試合を振り出しに戻した日産だったが、終盤に勝ち越しを許し、万事休す。だが第2代表決定戦(敗者復活トーナメント)へ希望が残る試合展開だったのは明らかだった。
再建計画報道で再認識したチームの存在意義
日産は改めて勝ち上がり、再び東芝と相まみえることになった。だがその2日前、本社が、追浜工場と子会社の日産車体・湘南工場での車両生産の打ち切りを発表していた。追浜地区には選手寮やクラブハウスがあり、練習用グラウンド建設予定地でもある。
そもそも5月に日産本社が発表した再建計画には国内外で2万人の人員削減が明示され、その頃から複数の工場の閉鎖も噂されていた。「野球なんてやっている場合か」。社内外からこんな声が聞こえてきたのも事実。そのたびに首脳陣は、「報道に過ぎない。心配しなくていい」と選手たちに伝え、自分たちの存在意義をもう一度意識づけていた。
「代表決定戦の前にああいう報道が出たことで、動揺も確かにありました。でも我々は野球を通じて会社を元気にしていく。今までやってきたことをぶらさず、みんなでまとまっていこうと改めて伝えました」
再び気持ちを一つにして臨んだ試合は5回終了まで2-2の競り合いを演じていた。だが6回、連打に判断ミスも重なり、3失点で接戦ムードは潰えた。最終的には2-7の力負けだった。
「ちょっとしたほころびかもしれないですけど、そういうところから相手はチャンスをつかみ、我々は勝機を手放してしまった」
西関東予選での企業チームとの対戦はこの東芝との2試合。強豪相手にいずれも前半は食い下がるも、後半に突き放される展開となった。
「(ピンチを)耐えて、チャンスを窺うことができない。春先からそういう試合が多かったので、嫌なイメージというか、『良い試合しているけど、このまま勝っていけるんだっけ?』という嫌な予感はありました」
突きつけられた準備不足と詰めの甘さ。
「ここまで良い部分を出すことを優先させていたので、できていないところとか穴があいているところをちょっと置いてきてしまった。意識づけレベルでも、つくりあげられなかったのが正直なところ」
もどかしさを拭い去ることは最後までできなかった。
だが、戦い抜いた先に「チーム日産」が得たものもある。スタンドを盛り上げた応援団は最優秀賞を受賞した。
「外部委託で応援団を結成するチームもある中で、我々が『手伝ってくれる人いませんか?』と告知したら、けっこう多くの人々が手を挙げてくれた。本当に自前なんです。さらにマリノス・トリコロールマーメイズのチアの方々や横須賀市の吹奏楽の人にも手伝ってもらえて。いままで(応援を)やったことがない人たちですよ。その大応援団に最優秀賞。もう500点です」
声援を送ってくれる確かな仲間たちの存在。指揮官は覚悟を決めた。「もうあんな試合はしない」。未完成のチームに足りなかったもの、それが見えた夏でもあった。
「言葉にすると“厳しさ”になるのかな。徹底力というか絶対的な力がほしい。学生時代はレールの上で頑張ってきたけど、日産自動車という企業に入って野球をやる。『なんでお前たちが社会人野球をやるんだ』ってなったときに、会社の方々に喜んでいただいて、優勝すること、称賛されることを求めている選手がどれだけいるか。まだそこに軸足を置く選手は少ないと感じます。大きな壁はいくつもありますけど、日産自動車の野球、負けない野球を作り上げていかなきゃいけないと思います」
ユニホームの右胸に描かれたブルーバードに従業員の思いを乗せ、日産自動車硬式野球部は走り続ける。
伊藤祐樹(いとう・ゆうき)
1972年7月7日生、兵庫県出身。津名高校、福井工業大学を経て’95年に日産自動車に入社。ショートを中心に活躍し、社会人ベストナイン遊撃手部門を3度獲得。「ミスター日産」の称号を得る。’09年の休部とともに引退し、三菱自動車岡崎のコーチを経て、’25年の活動再開にあたり監督として日産自動車に復帰した。


