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「親父は相当怖かったですよ」甲子園4回優勝、奇跡の公立校…箕島高校の名将・尾藤公とは何者だったのか? 息子が証言「態度が悪い選手シバいてた」 

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曹宇鉉

曹宇鉉Uhyon Cho

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posted2025/08/18 11:23

「親父は相当怖かったですよ」甲子園4回優勝、奇跡の公立校…箕島高校の名将・尾藤公とは何者だったのか? 息子が証言「態度が悪い選手シバいてた」<Number Web> photograph by KYODO

箕島高校の名将・尾藤公(びとう・ただし)。春夏合わせて甲子園出場14回、優勝4回

「智弁だけはやめてくれ!」

 漁師町の荒くれ者たちの息子や、みかん農家の息子、建設業の息子。尾藤公はさまざまな環境で生まれ育った気性の激しい生徒たちの力を引き出し、かけ合わせ、地方のいち公立校にすぎなかった箕島を全国屈指の強豪校へと育て上げた。当時の強豪野球部の多くがそうだったように、間違いなく暴力は存在した。

 一方で、試合中、練習中の水分補給や栄養補給を1970年代にいち早く取り入れる先見の明があった。その集大成が1979年の春夏連覇だった。当時10歳だった強が振り返る。

「あのころが全盛期でしょうね。強いのが当たり前みたいなところがあったんで。当時はそもそも和歌山の全体的なレベルが高かった。箕島もちょくちょく予選で負けていたから。監督になって思いましたけど、どこもいまとは気概が違う。いまはもう智弁和歌山を見上げてしまっているでしょ。そら勝たれへん」

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 智弁和歌山。80年代後半から和歌山の覇者となった同校は、箕島の歴史を語るうえで避けて通れない存在だ。「1987年。僕の現役のときの最後の夏が、智弁の初めての甲子園やったんですよ」。いつしか背中が見えなくなったライバルは、強の目にどう映っていたのか。

「そのころの箕島は県内で一番人気。もう飛び抜けてた。有田市でも特に海のほうの漁師町は昔からガチガチに箕島高校応援で、漁を休んででも甲子園に来るくらい。そこらへんの子が智弁に行くとなったら、『表歩けへんから、智弁だけはやめてくれ!』って言うてたくらいですよ。ただ、高嶋(仁)さんのスカウトがすごかった。公立校の箕島が勉強に力を入れようかというときに、智弁は野球だけで勉強がダメな子も取りはじめた。その間に逆転していったんです」

甲子園効果で毎年30人ほどが入部したが…

 地元で建設業に就いた強は、母校が智弁和歌山に追い抜かれ、引き離される様子を外側から見ていた。2013年、OBたちに背中を押されるかたちで箕島の監督に就任し、内側の現実を知る。

「智弁和歌山や市立和歌山に行きたい選手が、うちに向いてくれるかなと。実際はそうじゃなかった。指導者未経験だったので、そこが考えの甘いところというか……。(箕島が)甲子園に出ようが、智弁に行きたいって選手、親の気持ちは変えられない。20年くらい野球から離れている間に、そこまで強いもんになってるんやなと愕然としました。チーム力どうこうより、智弁ブランドの強さに驚きましたね」

【次ページ】 「OBに死ぬほど怒られました」

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